webの写真では平成21年12月の対島市教育委員会の説明板に「7世紀から9世紀、遣唐使や遣新羅使は本土からこの浦に来て下船し、西の漕手浦に用意された別の船に乗り換え彼の地に向かった」とあります。
http://abe-sin.com/kesiki/nagasaki/nisinokoide.htm
また、魏志倭人伝を探る (改訂版)(電子書籍)には、似たようなことを、舟そのものを陸上げして標高160mの峠を越えたようなことも書かれています。
https://books.google.co.jp/books?id=jYqdlv_8RYMC&pg=PT41&lpg=PT41&dq=%E5%AF%BE%E9%A6%AC+%E8%88%B9%E8%B6%8A+%E6%B5%85%E8%8C%85&source=bl&ots=pe-m62CXXh&sig=ACfU3U1UGpg0Xe4ordcjJvwJM5R51XDGJg&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwjSmbDgvsTpAhXPG6YKHQmIDMw4ChDoATAQegQIChAB#v=onepage&q=%E5%AF%BE%E9%A6%AC%20%E8%88%B9%E8%B6%8A%20%E6%B5%85%E8%8C%85&f=false
実際の記録、上記の記載の根拠資料などがありましたら、お教え下さい。
参考になる書籍のURLです。
「 古代の技術を知れば、『日本書紀』の謎が解ける 」
https://books.google.co.jp/books?id=HPFhDwAAQBAJ&pg=PT38&lpg=PT38&dq=%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF%E3%80%80%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E3%80%80%E8%88%B9%E3%82%92%E9%99%B8%E4%B8%8A%E3%81%92%E3%80%80&source=bl&ots=HSSSWU8Jys&sig=ACfU3U2EsNYHGJm3PUetEzfgNw1Zr2Wj5Q&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwi5ysfq2sfpAhXlDaYKHayTDc0Q6AEwCXoECAcQAQ#v=onepage&q=%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF%E3%80%80%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E3%80%80%E8%88%B9%E3%82%92%E9%99%B8%E4%B8%8A%E3%81%92%E3%80%80&f=false
「 古代史の謎は「 海路 」で解ける 」
https://books.google.co.jp/books?id=OVbUBwAAQBAJ&pg=PT45&dq=%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF%E3%80%80%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E3%80%80%E8%88%B9%E3%82%92%E9%99%B8%E3%81%82%E3%81%92&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwiylbWd3MfpAhWUNKYKHYjJCWEQ6AEILjAB#v=onepage&q=%E9%81%A3%E5%94%90%E4%BD%BF%E3%80%80%E5%AF%BE%E9%A6%AC%E3%80%80%E8%88%B9%E3%82%92%E9%99%B8%E3%81%82%E3%81%92&f=false
早速回答をいただきありがとうございます。 お礼が遅くなって済みません。 実は、PHP新書の長野正孝さんの「古代の技術を知れば日本書紀の謎が解ける」「古代史の謎は海路で解ける」を面白く読んで、それで、面白かったのですが、どうも根拠が薄弱で、「……のっ可能性もあるじゃないか」をただ書いているだけのように感じて、あれこれネットでみて、いよいよ疑問を深めて、この質問をしたのです。「海路で」のp157~162、p44~46は可能性を指摘しているだけです。p40~41には書記の欽明31年5月の「是月 遣許勢臣猿与吉士赤鳩 発自難波津 控引船於狭狭波山 而装飾船 乃徃迎於近江北山 遂引入山背高威館」が関係してますが、これは通常の使者路ではなくて遭難船を特別に飾り立てて迎え入れる儀礼の様子を記述したものです。
2020/05/23 19:47:20当時の日本の陸地はずいぶんと狭くて、海岸付近には潟が多く、内陸は湖沼が多くなっています。海の様子が現状と違っていて、現在は狭隘・浅海の瀬も、当時は瀬ではなく海は刳船で容易に漕ぎ漁と交易に使えた可能性は高いです。日常の脚に刳船を使っていた海洋の民が多ければ、天候や波浪、潮目の見方は慣れたものでしょう。
それで、この質問をさせていただいています。
古墳で馬に使う各種の道具?や各種の金属器が日本全国から発見されています。文献には「良馬」の献上や徴発、飼育奨励ばかり出てきますが、馬は騎乗、オープンカーのためだけではなく、荷役運搬の「駄馬」としてもかなりの数が日本全国で利用されていたようです。しかし、馬はどれも大陸から持ち込まれたものなので、馬を列島に持ち込む経路は細い数路に限られたものではなく、多くの海路があったのだと思います。馬を積んだ舟がたまたま漂着したのではなく、海路としてそれなりに認識されていたところを、雌雄の馬を積んで持ち込んだと考えられるでしょう。 「海を渡るには技術がいる」のは確かです。その技術は、弥生時代前期の人にも結構あって、各種の鉄類、石・鉱物、塩、物産が、陸運メインではなく、水運メインで運ばれていたし、人の集団移動もあったのではないかと思っています。
2020/05/23 20:03:42