(質問文を少し変えました。
当初は、キリスト教はギリシャ哲学を敵視していなかったけど、
その後、敵視するに至ったのでは?
というニュアンスに変えました)
敵視?むしろ逆なんじゃないかと。
コリント第一 1章には次のように書かれています。
22 (略)ギリシヤ人は知恵を求める。
23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、(略)、異邦人には愚かなものであるが、
つまりギリシャ哲学を学ぶ人たちからすると、
キリスト教は当初、取るに足りない物とみなされていたようなんです。
やがて、ギリシャ人のキリスト教徒が増え始めると、
クリスチャンであり哲学者でもあると自認する人たちが現れ始め、
それらの人たちは今日、教父と呼ばれたりしています。
現在は、ローマカトリックも、正教も、東方諸教会(コプト教、シリア教)も敵視はしていないと思います。これは昔から連綿とそうであったのか、どこかで敵視に振れ、どこかで、潮目が変わり、敵視から離れたのではないか、と個人的には思っていました。まだ もやもやとしております。
つまり敵視して排除しようとしていたのは哲学でも数学でもなく、
2019/01/14 12:15:51教会の教えと真っ向から対立する異端思想だったという事なのでは?。
お返事遅くなり申し訳ありませんでした。残業が多くて、自宅でパソコンを開くことができませんでした。Hypatiaはキリスト教徒ではなかったと思います。したがって、異端という言い方はできないと思っています。
2019/01/27 00:23:43しかし、私は不勉強でよくわかっていないことがあります。
ローマ帝国では、キリスト教が公認され、その後、国教化されたわけです。しかし、国教化するというのは、「キリスト教を信じないと、処罰を受けることに・・・」というふうになったのか、どうか、私は勉強しておらず。申し訳ありませんでした。もしかすると、キリスト教を信じていません、などと公言することはできない時代であったのかもしれず、だとすれば、Hypatiaも、公的には、「私はキリスト教徒です」という立場であり、すると彼女の主張は、正統か異端かという話になってしまいます。異端ならば、神の敵?として、敵視し排除するというのは、当たり前のことかもしれないですね。
(Hypatiaは、迂闊にもというべきか、敢えてそうしていたのか、わかりませんけど、
アレキサンドリアのキリスト教学院が説く、キリスト教の教えに対し、また、アレリウス達など有力なキリスト教指導者の説く、教えに対し、批判的なことを述べたかもしれません。直接非難するような言い方はしなかったかもしれませんが、間接的には非難に該当するかもしれないかったと思います。しかし、結局、彼女は殺されるべくして殺されたんだということかなぁと思いました)