様々なメディアや周りの人から意見を聞いていると、ある事柄について賛成・反対どちらの意見も分かるような気がしてしまいます。
人には色んな立場があって、そこに立ってみないと分からない意見や気持ちもあるかと思います。
原発、死刑制度、消費税、世界平和、その他色々…
私もしっかりと意見を言いたいんですけど、世の中にある情報が正しくなかったり偏っている可能性があることや、自分が知ってる事が少なすぎてただ無知なのを痛感するだけです。
自分の意見を考えてみても、それは主観的な気持ちや自分にとって有利な希望が入っているのであって、皆のためと思いながら自分のために主張してる気がします。
色んなものを見たり聞いたりするほど、ただそれを「ああ、そうなんだ」と頭にしまうだけで、何かを主張したいというか外へ向けて発信したくなる想いがなくて人として不安です。
色々考えはするんですが、あちら立てればこちらが立たぬみたいな感じで何も言えません。
何かを強く主張できる人は、どういう思いや根拠でそれを主張するのですか?
たいがいの事には各々言い分や事情があって「どちらが正しい」と言い切れることの方が少ないように思います。
議論が対立する時、その上であえてどちらかを選ばねばならない場合に、理由を考えた上で選択できた人がそう主張しているのです。ただ、私は「どちらとも言えない」という意見があって良いと思います。
別に「わからない」でもいいのでは?
なんにでも白黒つけないと行けないって、どんだけ窮屈な世界なんだろ。
でも、多分問題はそこじゃないですよね。
>何かを主張したいというか外へ向けて発信したくなる想いがなくて人として不安です。
しっかりと発言出来る人が羨ましいのかなぁ。って思ってますけど、どうでしょう?
以前の質問を見させてもらったのですが、趣味でイラスト描かれてますよね。
じゃ、ご自分で描かれたイラストになるべく詳細なコメントを入れて、公開してみてはいかがでしょう?
自分の制作物には、思いや、意図があるでしょうし、色んな考えも込められていると思います。
そう言った方法を取れば、しっかりした意見を述べられるのではないでしょうか?
例えば特定の事に対して意見を持ちたいのであれば、ソレをテーマにしてイラスト描いてみれば、
しっかりした意見を持てるのかもしれません。
いかがでしょう?参考になれば幸いです。
ありがとうございます。
前はかなり意思が強く堂々と発言するタイプだったんですが、いつからかそうじゃなくなってしまいました。
それと同時期くらいに絵も描かなくなりました。
私の場合、絵が描ける時って病んでいるというか、満たされていない時だった気がします。
でも今は何だかやんわり幸せというか、小さな事にでも幸せを見つけられる穏やかな性格になってから意見がなくなったというか…。
自分が幸せならいい、みたいになってる気がします。
強い意見をもって外に対してエネルギーを使えてる人って大きな不満がある人なのかもしれませんね。昔の私のように。
とても参考になりました。
「いいとこ取りしたい」「真ん中がいい」というのも一つの意見です。
ただ理由が大事です。
「考えるのが面倒だから適当に☆」とか「どっちもヤダ☆(代案なし)」は意見ではありません。
よく考えたら自然にでてくるのが意見だし、
自分の力(情報収集力や構成力)がたりなくて、自分で長い(詳しい)意見を考えられないなら、
「今まで自分が読んだきたなかでいうと、~~についてはまだどっちか決められないけど、
間をとって~~することはできないのだろうか?」とか「基本的に~~さんとは意見があいそうだからひとまずその人の意見に賛成」というのも一つの立派な意見ではないでしょうか。
そして、それが「政府」レベルの話だとしたら、黙って自分の生活に生きていて、
投票のときに一票を投じるだけで立派な意見表明になります。
回答ありがとうございます。
どの人の意見も考えると矛盾する部分や、実際行動が伴っていない部分、その人に都合の良い部分がある気がして、完璧に同意できる人がいないのが悩みです。
選挙の時も誰にも同意していないんだけど票は入れないと無責任になる気がして投票している自分が切ないというか。
自分が直接世の中を変えられるだけの能力もないので誰の事も責められないし、もしかしたら無気力なのかもしれませんね…
でも不思議と前より幸せな気がするのは確かなんですが。
最近は反対!賛成!って強く主張できる人ってどんな気持ちなんだろうって考えてしまいます。
最初に書きますが私が思った事でそうとは限りませんのでご容赦を。
>自分の意見を考えてみても、それは主観的な気持ちや自分にとって有利な希望が入っているのであって、皆のためと思いながら自分のために主張してる気がします。
場合にもよりますが、大抵の場合は自分の意見なんですから、自分にとって都合の良い解釈で意見を持ってしまうのは人間誰しも当たり前の事だと思います。
世の中どちらの言い分も通っている場合、大抵の物はどこかで矛盾します。それはそのどちらにも既に主観的な気持ちや有利な希望が入っている場合が多いです。
そうするとそれを聞いた人はどの意見が一番自分にとって都合が良いかを無意識に選びます。でも自分に都合が良いことが最終的に多数派なのであれば、それはより多くの人が幸せになる事だと思います。
>何かを強く主張できる人は、どういう思いや根拠でそれを主張するのですか?
例えば、主張する人の中にもそれが100%正しいと思ってやっている人は少ないと思います。それでもそれを100%として主張するのは、ブレると自分が不利になるからです。不利になる事はもちろん嫌です。自分が否定されるわけですからね。否定されると社会では立場が危うい場合も多々あります。なので意見する人はその立場がある上で言葉を選んだ主張をする事が多いように思えます。
例えば、組織は上層部の意見が自動的に自分の意見になりがちです。組織という場にいる「立場」上だからです。対してそれに反対するデモ団体は、「立場」上誰の意見にも左右されません。なので不満をストレートにぶつけられます。これはあくまで社会的な「立場」ですが、もしかしたらqueen666さんも何か「立場」や「立ち位置」が変わった事で不満がなくなったのかもしれません。
答えになっていないかもしれませんが、私が思った事を書いてみました。
ご回答ありがとうございます。
極端に考えると世の中の意見が51:49に分かれても多いほうが通るってことになりますよね。
私は少しぐらい犠牲が出るのも納得ですし多数決に反対ではないのですが、今の世の中だと6:4くらいの割合でも力加減によって4の方の意見が通ることもあるような気がしていて不思議な感じです。
基本的に人間は利害を考えて生きていて、自分と考えが反対の人も同じ思いがあると分かっていながら対立できると言う事は、戦争だって否定できないなと思ってしまいます。
飛躍しすぎですが、そういう自分の考えは考えで何だか危ない気もするので不安だと思っているのかもしれません。
デモする側に立場がないのだとしても、デモされる側は立場がありますよね…
それにデモする人はデモする人で自分の立場を守るためにデモしてる気もします。
自分の立場に不満がなくなったのか、不満すぎて諦めたのか、いっその事受け入れたのか、それは私もまだ分かっていません。
私の事よりは、私じゃない人はどんな気持ちで主張してるのかなと気になって質問させてもらいました。
何度も多数決、多くの人の利益にはたどり着くのですが、一方でそういう事だけでは危ないという倫理観?みたいなのも世の中にある気がするので、身動きが取れない状態です。
>何かを強く主張できる人は、どういう思いや根拠でそれを主張するのですか?
自分の意見や立場、感情や思考に対して、絶対的な自信を持っている人がいると思います。例えば、一般人の私からしても、「その失言は頭おかしいだろう」と思うような、失言が出たりしますが、「うっかり」もあるのかも知れませんが、「自分が言うことは絶対に正しい」、「自分に非があったとしても絶対に謝らない」というような、強い意志の元に生きている人は、いると思います。勿論、それらの人が全てじゃなくて、「強く主張する」という戦術だったりして、内面まで貫徹してない人もいると思いますが。
>世の中にある情報が正しくなかったり偏っている可能性があることや、
情報の正しさは、難しいですが、TV、新聞、インターネット等々、世の中に出ている情報は、どこか偏っていると思います。TVや新聞で、広告元、スポンサーが何か悪いことを、しても報道されにくかったりとかあります。「有利な希望」というのは、入りまくっていると思います。
また、相手の立場を考えないことは、ダメだと思いますが、何かに対する意見は常に「自分の立場で言えば」というのが、暗に含まれていると思います。そして、自分が発する意見は、自分の立場に基づいて、有利な希望になっていくのは、ある程度仕方ないと思います。
質問文を読んで思ったことですが、最終的に「意見がでない」となった理由、例えば、「あちら立てればこちらが立たぬみたいな感じ」に至った理由とかは、私は、文章で読んでみたいと思いました。賛成・反対のどちらかの意見も大事ですが、理由のある中間意見も、大事だと思います。
ご回答ありがとうございます。
>それらの人が全てじゃなくて、「強く主張する」という戦術だったりして
これは政治家などを見ていると思います。
全員とは言いませんが、それなりに知能はある(少なくとも私よりはある)人が国民の代表になってるわけですよね…
その発言に対する裏の裏、複雑に絡まった色々な事象、もう考え出すと結局は私の知識や立場では判断し切れない事なのかなと。
自分にとって有利な発言をするのは仕方ないし、私もどんどん自分にとって有利になる事を主張していいか…と考えると、そうではない気もしまして。
それが一部の人間の利益で全体の利益ではない場合、私は考えを変えるべきだろうか…とか色々立ち止まってしまいますね。
例を挙げて文章で書かせてもらうと、大学で論文を書いた時みたいにものすごい長文になると思いますし、結局結論は?と聞かれると答えられる自信もないです。
やっぱり主観的になってしまいそうなのと、絶対的に正しいことも間違っている事も存在しないって事がネックになりそうなので。
>何かを強く主張できる人は、どういう思いや根拠でそれを主張するのですか?
-1-
多くの場合、自分がそれまでに経験してきたことにもとづいて、主張をしています。
したがって、その人が経験したことのない事態や問題においては、いかに誠実で自信たっぷりの意見でも、まったく的外れな場合もあります。
-2-
なかには、自分の利益のために、意図的に相手に嘘をついたり、不正確なことをいう人もいます。
これは嘘に近い。言葉の使い方としては、間違っている例です。
-3-
ごくごく一部の人は、「悟り」を得ていて、人類の歴史、人類という特別な動物の地球上における位置づけを心得ていて、それにもとづいた主張をします。
でも、99%の人間はそれを理解できないので、その人は、あまり強く主張しません。
日本の仏教は大乗仏教が主で、これは中国を経由して入ってきた仏教です。
中国には、儒教が思想的にあったので、仏教の思想的部分は取り入れられず、思弁的な禅や呪術的な護摩を焚く密教が取り入れられました。
日本の場合も、思想的には、神道や修験道の禊ぎが主で、仏教はかなり早い時期から葬式仏教だったのです。
したがって、日本の仏教者は、人間という生き物について、あまり考えません。思想性が低いのが日本の仏教の長い伝統です。
ただ、ごくたまに、最澄や道元のような、卓越した仏教者が現れて、比叡山の千日回峰や堂入り、永平寺の只管打坐のようなものが生まれます。
残念なことは、最澄や道元の言っていることを理解できる仏教者が少ないことでしょう。
まだ宗教に関わったばかりの頃、信者さんたちは何故自分自身が神や仏に近づこうとしないのか疑問に思ったことがあります。
私だったら悟ることはできなくとも、例えばお釈迦様の行動とできるだけ同じ事をしようと思います。
そういう精進というか色んな努力をしないのに救われる理由なんてあるのかと。
(わたしは精進したくないと思ったので修行などもやってないですし、救われようとも思いませんでしたが)
仏教が全ての人にとって精神や思想の世界であるわけではなく、どちらかというと文化や伝統の流れだと言う事もだんだん分かって、それが間違っているとも思ってはいません。
多くのお年寄りや熱心な人たちを見てると、皆心のどこかで死に対する恐怖や、世の中を生きていく不安を抱えていて、彼らが宗教を信じる事で救われているならばそれでいいのかなとは思えます。
なので、しばらく関わっていけたらとは思いますが。
(若者がいない小さなお寺なので存続できるか微妙ですが)
私はまだほとんどそういう仏教に関しての知識がありませんので、これから学んでいけばまた何か気づくことがあるかもしれませんね。
それはあなたの智恵が発達している過度期にあるからそのように感じるのですね。
大体、智恵の発達段階は次のようになります。
何の主張も無い時期→主張を持つ時期→様々な主張を受け入れる時期→一切の主張無く臨機応変、当意即妙の時期。
かつて幕末で日本第一の智者と呼ばれた勝海舟は、同じく智者と知られていた横井小楠に会い、その意見を聞いて感心して帰った。
しかし、帰路の途中で小楠からの使いが追いついて来て「さっきの話は今はそのように思うが明日になれば又違うかもしれない」と、いう意味の事を聞き、さらに感心して帰ったという逸話があります。
智者同士の間にはなんら固定的な主張や意見は無く、ただ事に当たって当意即妙に智恵を出し、囚われないのです。
今あなたが感じるように全ての意見にはそれぞれ一長一短があり、立場の違いがあり、損得があります。
それを現今の状況に合わせて分析検討し、取捨選択する事が次の段階になります。
一つの意見には今の状況では3つの利益が在り、反対の意見には2つしかないから利益の多いほうを取るとか、より多くの人の利益になる方を選択するとか、分析や選択にもさまざまな方法があります。
そのような方法も研究し、さらに智恵を磨いていけば、現今の状況に応じた主張ができるようになるでしょう。
ありがとうございます。
「一切の主張無く臨機応変、当意即妙の時期」やはり最後は意見を持つというか行動が伴うところまで行くって事ですよね。
多くのことを知れば知るほど、行動が伴わないというかその実力がない自分がもどかしいのかもしれません。
それに、自分のキャパを超えて全てを知りたい把握したいと願う傲慢な部分があるみたいです。
絶対的でゆるぎないものを探しているのに、絶えず流動的に変わり続ける事が自然に思えたりもするのでなんだか不思議な気分です。
何かの本で読んだのですが、人間の精神の発達段階で勇気→正義→節制→知恵と書いてあって「なるほど」と思ったのですが、その先はどうなるのかなと。
話が反れそうなんですが、発達段階でいう「主張を持つ時期」にいる人の事を私はちょっと離れたところから見てしまってるという事でしょうか…
それこそ思い上がりじゃないのかなって不安になるし孤独にもなります。
やはりもっと経験したり学んで、内面的に変化しないとわからないのかもしれませんね。
できれば私は自分で何かを変えたかったけど、その段階には達していないということは分かりました。
何かを主張するためには自信がないと出来ません。
しかし、私たちは知っています。
どのように正しいと思えることでも間違っていることもあるということを。
前提となる現実が変化するということを。
それでは何も言えないじゃあないか?と思われるかもしれません。
しかし、考えてみて下さい。
世の中には大勢の人が意見や主義主張を振り回して大きな顔をしています。
中には自分が属する団体に有利な意見を主張している類の輩も多い。
当然ですが、間違った意見や主張も数多くあるわけです。
多くの主張する人は、ある前提の元に主張しています。
それは、言うまでもないこと。
多くの意見や主張の前には次のような前提が付きます。
1、もしかしたら間違っているかもしれない。
2、現在、私は、コレが正しいと思う。
つまり、自分の知識の限界を認め、その範囲内では「今のところこう思う」と言っているわけです。
なかにはスポンサーの意向に沿う意見や主張を発信して金銭を稼ぐ輩や会社も当然ながらいます。
そういった輩の主義主張も多分に多く混ざっているんだということを考えれば、間違いかもしれないと認めることは卑怯な言い訳かもしれません。
しかし、大部分の人は自分が正しいと思って主張します。
あなたも主張する時はもしかしたら間違っているかもしれないけれど、今のところ私は「こう思う」ということを主張するべきだと思います。
そして、自分が間違っていると知った時には意見を変えるべきだと思います。
それはちっとも恥ずかしいことではなくて、人間として当たり前のことなのです。
普遍的な真実は蜃気楼のようなものかもしれません。
追えば逃げるだけ。
ある条件があって、その枠組みの中での妥当性を求める。
それが、人間が可能な唯一の良心的な態度だと思います。
条件が変われば以前の考えは間違っていたということになります。
変化がだんだん加速されている時代にあって、私たちは変化に対応することを常に求められて続けているのだと思います。
”絶対”はないけどあるようにも見えるという事ですね。
あればとても楽な気がしますが、あるならあるで困ることだってあるのでしょう。
大学でとある教授の倫理の講義を受けたのですが、その方は「その条件の枠に入り、そこにあるメリットを受ける必要はない(デメリットを受けていい)という選択をしたならば、人を殺す事だって悪くならないことになる」と言いました。
それに納得したので、今私が外れているとしたら何かの切欠でものすごく怖い(やばい)人になってしまう気がするのです。
だからできるだけその枠に入っていたいけれど、入れているのかも解らず…
とりあえずその枠の中にいようとする事をやめないで居る事が今の私にできることかなと思いました。
個人差はありますが、何の根拠もなく主張できる段階から、色々な経験を経ることによって、主張に根拠を必要とする段階に移って行く途中の段階なのではないでしょうか。
知識の量もさることながら、根拠と主張をうまくつなぐ技術が身についていくと、段々と自信を持てるようになると思います。
回答ありがとうございます。
その根拠、をいつか見つける事ができれば成長できると思うんですが…
何だか見つかる気がしないです。
まだ学生の頃、自分が自信に満ち溢れていたのは、大した根拠もなく主張できる段階にいたってことですよね。
でもその時は自分の事がとても正しいと思っていました。
たとえばその主張と根拠が上手く繋がってる人ってどれくらいいるのでしょうか。
私よりもとても賢い人の話を聞いていると、その時は納得するのですが、後で繋がらない部分なども出て来て混乱してしまいます。
本当は繋がっているのかもしれないけど、私はまだそれを理解できていない段階にいるって事なのかもしれませんね。
私はAとBのどちらかを選べと言われた時、必ず「どちらでもない」という答えを含めて考えます。要は全てを鵜呑みにせず、おかしい所がないか?と一度考えてみるのです。
その上で、自分の意見ははっきりと述べます。
どんな答えになっても、その理由を掘り下げて他人に説明できるように整理します。
ここで大切なのが、いくつかのポイントを忘れずに伝えることです。
自分の考えに矛盾や間違い、未だ理解できていない点があること。
自分の意見が絶対的に「正しい」なんて思わないこと。
他者の意見を積極的に受け入れ、更に模索を続けたいこと。
勝利を目指すだけのディベートは大したものを生み出しません。
世の中、勝利だけを目的に主張し、それが直接の結果になることを願う人間は多いです。
が、本当に為になる「自分の意見」は、互いに高めあう過程の一部に過ぎません。
こういったことを弁えた上での意見であれば、
多面的に物事を見ながらでもできそうだと思いませんか?
ご回答ありがとうございます。
自分を高めるための意見ならば、私はいくらでも言える気がします。
話し合うだけなら大好きなので、いくらでもできます。
この前も大学時代の哲学の教授と色々お話しました。
(教授は私の考えを偏らせるような意見は仰らないので、やっぱり答えは出ないままですが)
ただ、自分の意見から動きが起きて自分以外の人、物事にも影響を与える結果をもたらす事になる場合(たとえば政治など)になると戸惑ってしまうのだと思います。
昔のように何かを勝ち取りたいとか、不満を解消したいとか、自分を主張したい意思がなくなり、どこかへ属す事が難しくなって来た気がするのです。
共感できないわけじゃないんだけど、そこが私の場所だと思えない気がするというか。
要はご自分の意見を持ちたいという事ですよね。
賛成、反対はまずは置いといて、フラットに自分が大切に想う人達、家族、友人、恋人、子供がその課題、問題に直面した際、どう考えるなんでは思います。
(自分を例に考えると我が身の可愛さで判断ミスしがちなので除きます)
勿論、結論出すにはその課題、問題の状況、原因は注意深く知る必要はあります。
色々なバイアスのかかった情報もあると思いますが、事実を積み上げ、自分が大切に想う人が困難な状況であること想像して出した結論であれば、それ程大きな判断ミスをする事はないと思います。
自分が大切に想う人の為と思えば、ご自分の意見を主張できませんか?
ご回答ありがとうございます。
確かに自分以外の人で全くの他人ではない人の事を考えると、その人にとってできる限り良い選択をして意見を持ちたいと思います。
それが全体にとって良い選択だと確信が持てなくても、その人にとって良いと判断したならば選びたいと思った事はあります。
ただ私が愛される側の立場で考えた時に、それはとても嬉しいことだけれど、私のために公平な考えを持たなくなるのも心配かもしれません。
つまりは最終的に私のためにはなっていないと私が感じる事もありました。
学生くらいの頃は。
今はまた違った思いがあるので、今その判断をされたら考え方は変わると思いますが。
結局他人は自分の鏡といいますか、自分というものが全ての判断の中に出て来てしまいます。
自分の意見がなくなりそうなのは、他人を見ているとそれがその都度全ての答えのようで、自分が何かを主張することはない気持ちになってしまうのかもしれません。
私は今妊娠しているのですが、生まれてくる子どもが成長するまでは、恐らくその子の成長に必要な事は主張していけると思います。
子どもが私を頼らないと生きていけない状態にあるうちは。
主張というよりは、限りなくベストだと思う状態を選ぶ事ができる気がするというか。
私は、「賛成」「反対」ばかりの世の中になる方が不安です。意見は色々あって良いのです。
2012/03/13 08:42:20また、何かを決めないといけない時に決断することと、中庸的な意見を言うことはまた別の話ではないかと思います。
さらに言えば、「ものを言わない」と「中庸的な意見を言う」も違うと思いますね。
無知であることを恐れて口をつぐむよりも、自分の考えを示した上で積極的にものを言って足りないところは議論の中で見直せばよいのではないでしょうか。
そうですね。
2012/03/13 09:09:20ただ私が聞きたいのは、私を認めていただける内容とかアドバイスというよりは、私とは違う人がどういう信念とか意思、根拠?で意見しているかであります。
例えば原発でいうと、賛成している人もいる、反対している人もいる、どっちの意見が通ってもまぁそれなりに納得かなって思ってしまいます。
どっちかに関して相手を唸らせるくらいの知識や筋の通った意見があれば変わってくるのかもしれませんが、言う前から矛盾があるのが分かっているので…。
何故そこまで確証のない自分の考えを示したいって思うのか、が気になるのかもしれません。