1316498636 いわゆるチャンク(塊)、つまり子どもたちが使い、チンパンジーNIMが使った二語文、三語文は、統語論においては、どういう位置づけになっているのでしょうか。


二語文や三語文は、統語なのか、統語ではないのか。

文法的な接続、つまり接続詞や接続助詞、あるいは助動詞などを使った複雑な文章と、チャンクはちょっと違うのではないかと思うのですが、そのあたりのこれまでの学説や皆様のご意見を教えていただけませんか。

参考までにチンパンジーNIMは二語文や三語文は容易に使え,最大五語や六語の記録もある.(Terrace, H.S. NIM, Knopf, N.Y. 1979)

“NIM”は以下のような表現をした.

Please machine give apple
Please Tim give Coke
You tickle me
Nim hug cat
Me more eat Banana

また,岡本夏木は「育児語の特徴は世界的にも共通しており,話しはじめの子どものことばの表示形態や構文が世界的に似ているのは,必ずしも言語の生得的性質にもとづくとは限らず,育児語のもつ普遍的性質によるとの解釈も可能」という.言語の性質によって二語文・三語文が生まれるのではなく,生物としての生得的能力によってそれが生まれるということでしょうか.(岡本 子どもとことば,岩波新書,1982 年)

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回答1件)

id:matsunaga No.1

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まず、チンパンジーNIMは音声言語ではなく手話を使っていました。そのため、NIMの使用した「言語」は音声言語の文法とは異なっているといえます。これを例に挙げるのは少々問題があるでしょう。


次に、統語において中国語のような孤立語の場合は膠着語・屈折語と異なって活用がありませんが、もちろん統語そのものはあります。したがって、活用の有無や助辞による変化は統語であるか否かとは直接の関係がありません。

二語文・三語文に文法があるか否かという点において、たとえば三語で最初に動作主、次に動詞、最後に目的格の言葉が来るとすれば、当然文法があると言えます。中国語で我愛他と他愛我には当然意味の違いがあります。幼児の二語文・三語文でも最低限語順規則があるとすれば、それは充分に統語的であるといえるでしょう。


最後に重要なポイントですが、「(育児語のもつ)普遍的性質によるとの解釈」というのは、当然ながらチョムスキーの普遍文法論に従った考え方です。人はもともと普遍文法というものを先天的に有しているからこそ言葉が使えるようになる、というのは、チョムスキー派の大前提となっています。

一方で、幼児期に完全に人間との接触のない環境で育った子供が言語習得能力を失う、もしくは極めて低いレベルにとどまるという事例も報告されており、これは生得的なものだけではなく、やはり「教育」によって言語能力を習得するという要素もあるからだと考えられます。この経験主義の立場としてはコネクショニズム/コネクショニスト・モデルといった派があります。

おそらく、先天的要素もあり、後天的要素もある(どちらの要素も見られる)というのが今の主流の考え方だと思われます。

http://www.jacet.org/sla/sla-book2.pdf


これらの点については、言語習得理論や認知言語学あたりをお調べになるとよいかと思われます。ちなみに、認知心理学に近い領域において、「チャンク」という言葉はジョージ・ミラーのマジカルナンバー(7±2)と関連して用いられる用語ですので、ご注意ください。

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コメントに返信。「普遍文法」についてはチョムスキーの大前提となる概念ですので、入門書などでも読めるかと思います。

NIMの「言葉」についてですが、NIMの手話についての資料が手元にないのでよくわからないところがあるのですが、仮に「Nim hug cat」が「cat hug me」と意味が異なるとすれば、それは語順による統語規則が成り立っている(さらに主格ならNim=I、目的格ならmeという変化を行なっている)ということになります。しかし、「Me more eat Banana」を見る限りでは4つの単語を並べただけということになります。この場合、統語とはいえないように思われます。

要するに、SVOなりSOVなりの「語順」が意味に影響を与えるか否か、主格か目的格かで言葉を使い分けているか否か、といったことがポイントとなります。ですから、提示された文だけでは判断はできず、その「語順」に意味があれば統語的、語順に意味がなければ非統語的ということになります。

なお、NIMが仮にSVO語順で手話を用いていたとすれば、それは先天的な普遍文法の証明というより、むしろSVO語順の話者が教育したという後天的な経験を裏付けるものになると思われます。

id:ShinRai

ありがとうございます。

しかしながら「統語」、「文法」、「普遍文法」の定義が理解できていないので、ややついていけてないところがあります。

>幼児の二語文・三語文でも最低限語順規則があるとすれば、

>それは充分に統語的であるといえる

たとえば、手話であったとしても、NIMの

 Please machine give apple

 Please Tim give Coke

 You tickle me

 Nim hug cat

 Me more eat Banana

などの語順は統語的であるといえるのですか?

2011/09/20 23:19:59
  • id:ShinRai
    NIMは「you」という代名詞を覚えるのに三ヶ月かかったということです。

    手話には文法がないから、チャンクだけはできたと考えられなくもないのでは。

  • id:ShinRai
    生成文法と普遍文法がどう違うかわかりませんが、これを読むかぎり、生成文法ってなんだか怪しげな理論に感じられますね

    チョムスキーに「生成文法」という幻想をいだかせた神経細胞のデジタル・ネットワーク・オートマタにもとづく「二重符号化文法」

    http://ci.nii.ac.jp/naid/110008583968

    今日に至るまで,文法とは何か,文法のメカニズムはどうなっているのかということについて,十分に検討が行なわれたり,議論されたり,解明されることはなかった.デカルト派言語学を自認するチョムスキーが提起した難題「ヒトは状況に応じて新しい文を作ることができ,それをたった一度発話するだけで,聞き手がただちにそれを理解できるのはなぜか」を,生成文法論者を含めてまだ誰も解明できていない(1).チョムスキー自身は「この問題が人間の知的な能力の範囲内にはない」,「神の介在なしにはありえない」と述べている(2).だが,未解明の理由のひとつは,構造主義の「形態素」・「遺伝子型/表現型」概念と似て非なる「語形成素」・「深層構造/表層構造」という概念を用いるためではないか.また言語のメカニズムは社会科学でも自然科学でもなく,符号理論として取り扱うべきではないか.筆者は,ヒトの言語は脳内の自律的な神経細胞ネットワーク上で作動するデジタル通信システムであり,文法は情報源符号化と通信路符号化という二つのデジタル符号化メカニズムのシナジー(相乗)効果によって生み出された一連の機能を指し示す音響符号語であると考える.デカルトの結論に反して動物も論理装置や概念をもっており,ヒトのヒト以外の動物に対する質的相違は二重符号化文法に求められる.
  • id:matsunaga
    生成文法理論の土台・背景となるのが「普遍文法」という考え方です。
    言語学の概説入門書をまずお読みになることをお勧めします。
    生成文法と普遍文法の違いがわからないと、この疑問への回答は理解できないと思います。
  • id:ShinRai
    普遍文法や生成文法というものは存在しないのではないでしょうか。

    LAD(言語獲得装置)や言語遺伝子も存在しない。

    チョムスキーの生成文法についての1962年の講演録を読んで、
    そこで引用されているボリンジャの議論が、混乱を増すために
    引用されているように感じました。


    チャンクについては論じていないということでしょうか

  • id:matsunaga
    「存在しない」と断定されるのは尚早だと思います。
    また、チョムスキーの生み出した生成文法も年々変化しており、1962年のチョムスキーの考えを信奉している言語学者は現在存在しないでしょう。生成変形文法への発展やGBやXバー理論などの展開を見て行くと、当初のチョムスキーの考えが完全に覆されている面もあります。


    ワトソン、スキナー、ブルームフィールドの習慣形成説に対して持ち出されたチョムスキーの生得能力説やLAD説の登場、といった流れがあることを踏まえて考えると、習慣的な要素も生得的な要素もどちらもあるのだと考えられます。それを、そんなにあっさり「存在しない」と決めつけるのは、乱暴な議論と言わざるを得ませんし、「あるかないか」「100かゼロか」の極端な二分化のように思われます。


    ですから、言語学の中でも特に統語論の理論の流れを概観する概説書や、「言語習得」をキーワードにして見つかる概説書などをお読みになってから判断を下しても遅くはないと思います。
  • id:ShinRai
    いろいろとありがとうございます

    >当初のチョムスキーの考えが完全に覆されている面もあります。

    チョムスキーのどこが間違っていたのかといった議論はなされているのでしょうか。

    どこが間違っているかをきちんと議論せずに、覆されているとしたら、ちょっと変じゃないかとも思うのですが。
  • id:matsunaga
    すみませんが、何度も何度も繰り返して書いているとおり、「言語学の中でも特に統語論の理論の流れを概観する概説書や、「言語習得」をキーワードにして見つかる概説書などをお読みになってから」コメントなさっていただけますか。チョムスキーに対する反論などもきちんとした議論(論文)があります。これこれこういう現象が観察されるのはチョムスキーの普遍文法では矛盾する、ということがきちんと述べられています。
    「どこが間違っているかをきちんと議論せずに、覆されているとしたら」などという曖昧な決めつけを前提として「ちょっと変じゃないか」というような感想を持つ前に、どのような議論が実際になされているか、きちんとお読みになってからコメントなさることをお勧めします。
    きちんとした文献(せめて概説書でも)に当たらずに学術的なものについて思いつきの感想を述べることは、決してお勧めしません。

    先の質問で「普遍文法や生成文法というものは存在しないのではないでしょうか。LAD(言語獲得装置)や言語遺伝子も存在しない。」と断定された後に、「チョムスキーのどこが間違っていたのかといった議論はなされているのでしょうか。どこが間違っているかをきちんと議論せずに、覆されているとしたら、ちょっと変じゃないかとも思うのですが。」とおっしゃること自体が完全に矛盾していますし(前者は理由を述べずにチョムスキーを全否定されていますので、それこそ「ちょっと変じゃないか」の批判対象になってしまいます)。

    興味を持たれるのは非常によいことだと思いますが、ぜひ、これまでに出ている議論等を賛否両論どちらもきちんと文献で把握した上で感想や意見を構築するという学問的な姿勢を身につけることをお勧めします。
  • id:ShinRai
    ありがとうございます。

    おそれいりますが、ではチョムスキーの間違いを指摘している論文や本をいくつかご紹介いただけませんでしょうか。

    お手数ですがよろしくお願いします。

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