非常に狭く限定された形式を持つ英文によって、全ての文を表現したいです。理由は、論理学上の諸命題を列挙してその全体を整合的かつ一義的に計算したいからです。


限定事項の例:
・全ての命題は主語(句)とその後に続く述語(句)を持ち、追加的に、目的語(句)、または/そして、修飾語(句)を持つことができる。
・修飾語句は "(small) of (large)" の形式である。
……等。

上記が適切であるかは今後考えます。まずは、根底的に対立する(どの概念集合に属するか規定する)概念を設定したいと思います。

私が思いつく中でもっとも適切と思われるのは、positive/negativeです:
・positive……肯定的、定立的、帰納的、経験論的、多神論的、文学的、憲法的、民主的)
・negative……(否定的、消去法的、演繹的、合理論的、一神論的、自然科学的、法的、君主的)

対立する概念は少ないほうが都合が良いわけですが、第三のneutralが必要かもしれません。

この「根底的」概念として、何が一番適切であるか論じてください。

幅広い観点からのご意見を願いますが、十分知性がある方のご回答を期待します。

回答の条件
  • 1人2回まで
  • 登録:
  • 終了:2011/01/25 19:50:03
※ 有料アンケート・ポイント付き質問機能は2023年2月28日に終了しました。

回答0件)

回答はまだありません

  • id:sibazyun
    ・よく質問の意味がのみこめません。


    ・最初に話題にしているのは「形式」ですね。たとえば「A=B」とか「A≠B」という形式では、AやBには世の中の全ての概念(を表す名)が来る可能性があります。


    ・次に話題にしているのは(対立)概念ですね。その概念と、最初に話題にしている形式の関係が分かりません。
  • id:EnglishZucchini
    >sibazyun様

    >最初に話題にしているのは「形式」…次に話題にしているのは「概念」

    「形式」と「概念」が無関係ということが言いたいのであれば、そのご意見は、現代ではほぼあらゆる場合に間違いです。以下、ご存知かもしれませんが、なぜ誤りであるかざっと説明します。以下は概論かつ一般論であって、厳密でも学問的でもありません。教科書レベルのものです。

    19世紀末までの西洋哲学(なぜ西洋哲学かと言うと第一にここで規定されている基軸言語が英語であること、第二に東洋哲学が恣意的に過ぎ論理計算(「命題の真理値の計算」)に沿わないこと。ただしニーチェとインド哲学(サンスクリットでかかれたもの)とは現代でも整合的かつexproitの観点から有意義であるというのが識者間で多数意見で、ここで言う「西洋(インド=ヨーロッパ)哲学」に含みます)においては、形式(figure。formではなく)と概念(idea)とは、アリストテレス以来の「(有限な人間が理解可能であるように整理されているが「不完全」な)文⇔(神のlogosであるところの)語」に添い、前者を大雑把に言うと「量quantity」、後者を「質quality」であるとして、異次元とみなしてきました。例えば、概念としての「赤」は人間がある種の可視光を見た場合に心に直接現前するところの質(いわゆる構造主義の言う「指し示されるもの」)、であり、「赤の意味」とは「赤」、「red」、「rose'」などと言語化=記号化された物質(同じく「構造主義」の言うところの「指し示すもの」)でした。つまりfigureは多次元の「図」(論文で「図」をFig.といいますよね)であり、人間が有限の形式で理解できるが厳密ではない(学術では附加的にしか使えない)もので、ideaは神のみが生産できる(人間はそれを言語languageという有限な形式によって「発見」することしかできない)「実体(figureのmeanings, ギlogos)」と考えられてきました。代表は、カント、ヘーゲルなどの素朴なドイツ近代哲学で、デカルト以来の大陸合理論も含まれると思ってよいです。しかし1900年代末、ニーチェはひとり田舎でアフォリズム群を書きました(有名な著作は『ツァラトゥストラ』)。彼の著作は現代哲学からみると非常に厳密で示唆に富み「まだ開拓されつくしていない」と考えられていますが、当時は「頭が…」「形式が混乱…」など、見向きもされませんでした(彼は友人の間でだけ有名でした)。近代ドイツ哲学や、大陸合理論の遺伝子は、その後も、精神分析や(特に米国の)新カント主義などに引き継がれ、演繹的思考形態の洗練の場として機能してきており、非常に「有益」なのです。が、社会的には民主資本主義の台頭により、「質と量」を区別できなことが人々に体感されるようになってきました。これは論理的に説明すると、質が変化すれば必ず量も変化し、逆もまた真(一体の表裏)という原理が発見されたことによります。史的に言うと、あらゆる力power(軍事、行政、法、価値、等)がすべてお金money(正確には金gold)を「基準」とする世界的コンセンサスが形成された(殺し合うのでなく金を奪い合う)ことにより、一元的思考が一般化したからです。

    つまりこれをこの質問の主題に敷衍すると「形式」と「概念」とは「量」と「質」との対応に準じ(最近日本でも変な科学者が「クオリア」とか言っているでしょう。これはqualityのラテン語(原語)です)、片方が片方を一方向に規定するものではなく、「片方が変化すれば必然的にもう一方も変化するもの、そしてそれらは他の全概念と(木構造ではなくリゾーム構造で)も同じ」です。

    というわけで、あなたはおそらくは理系で19世紀までの思考で十分なのかもしれませんが、残念ながら理系は現代では(実際は古代ギリシャ以来そうですが)「労働し、奉仕する」分業であって、「考え、与える」るという仕事ではありません。少なくとも、あなた様ご自身は、まちがいなく20世紀中庸の哲学的常識までをお飲み込みになってはいないことが、発言からわかります(この議論は、西洋芸術では1940s~50sで終わり、哲学では1970sで終わりました。当時の学生闘争は、「無理解」を忌み嫌うことが軍事的に表象したもので、世界中の高い水準の大学(ただしユニバーシティであってカレッジではない。それから「ただノッているだけの人」がかなりの割合いた)を中心として、合意のもと同時多発しました。が、ご心配なく。現代では、「そういう人はそういう人」という考え方、つまり「共闘でなく共存」というような形式が一般化しています。例えば北欧では「何が善かを人間は知ることができない(人間が知ることが出来るのは形式化された不完全なものだけ)。かつ怨恨に基づく軍事は相対的に反利益」というコンセンサスにもとづき、「犯罪者は、罰するのではなく、社会から隔離するだけ」という法哲学が適用され、完全に実行されています。

    北欧にご移住なさってはいかがでしょう。北欧はあなたにとってとても心の平安が得られる場所だと思いますよ。

    以下、あなた様の名誉のために付記いたします。

    私が他のIDでIT関係の質問をしたときの、あなた様のご回答は、とても有益だと思います。初心者に親切ですし、視野が広く、意義のある、高度にテクニカルなご回答です。

    しかし、人には得手不得手があります。不得手の場に出て行くと、日本人が最も嫌う「恥」が生まれます。ソクラテス以来、「自分を知ること」が最初の一歩であることは、知的世界で振舞う(真である命題を生産すること)場合の最も合理的な手順です。ご自分の力が相対的に弱いと思われる場所には、特にもしあなたが日本的価値観を尊重するなら、出ていかないか、十分な研究のもとで慎重に発言することです。

    いつも私はあなた様のお世話になっています。はてなポイント程度(たかだか数十円)では、普通はとり合ってさえもらえない水準にお質問に対して、少なく見積もっても数千円からの価値があるご回答をくださってます。が、たまには私もあなた様に意義ある示唆をすることができるのです。
  • id:sibazyun
    とても回答にいたらないので、コメントで失礼します。

    positive/negativeをあげて、第三のneutralをあげて
    いらっしゃいますが、もう一つの「第三」をあげると、
    still(静止)があるかも知れません。これは、

    positiveもnegativeも +motion、向きは違っても
    運動、移動を表しているのに対し、
    -motion、「移動の否定」にあたるものです。

  • id:EnglishZucchini
    >sibazyun様

    いやみったらしいコトを書いてしまってごめんなさいね。ちょっと自分の領域に踏み込まれたような感じになって、血が登ってしまったものですから。謝罪いたします。

    それは、ご回答に書いていただいても結構なのですけど。別に「ハイレベル」な質問を期待しているのではなく(この記述自体失礼ですが)、幅広い意見からの「真剣な」ご回答を期待しているだけですから。

    次からは、回答欄にお書きくださいね。

    さて、別の次元としては、sibazyun様は静―動をお挙げげになりました。これは、motive-stableですね。

    さて、ということは、次に、positive-negativeの対立と、motive-stableの対立と、どちらが「根本的」であるかということですよね。

    実は、(学校では、「名詞」とか「動詞」、あるいは「体言」、「用言」などと習いますが) 言語学(または比較言語学)の常識として、「単語(と、それからなる命題〔「文」と考えてください〕は、『どちらかというと名詞』、「どちらかというと『動詞』などと言う風に言えるだけであって、完全に名詞であるとか、完全に動詞であるとか、言うことが出来ない」、ということがあります。私は普遍的な命題の集積による命題計算を目論んでいますので、どの言語に翻訳した場合でも命題の意味が不変化かつ等価でなければなりません。そうすると、言語によって分類の仕方が根本的に違う「(動作を示す)動詞」とか「(性的な物体を示す)名詞」とかによって分類してしまうということは、「違う言語に翻訳した場合に命題の意味が変化してしまう」ことをいみします。

    例えば、日本語で「少なくとも2011年1月1日において、日本国東京都千代田区千代田1丁目1番地(正確には世界測地系の経緯度で示すことになると思いますが)は、「皇居」『である』」という命題があるとします。

    この文章の主体(主語)として感じられるのは、普通は「皇居」です(他には「2011年1月1日」も主体として考えることが出来ます)。それで、いわゆる「動詞っぽい」のは『である』です。

    英語に直すと、"At least in 1st January, 2011, Chiyoda 1-1, Chiyoda Ward, Chiyoda Metro., Japan IS the home of the Japanese emperor" です。つまり「動詞」が "be" ですね。英語では、beはあなた様の言う「静的な」動詞であり、それ以外の動詞は、(学術的、日常的、などのばめんによりますが)「動的な」動詞、ということになります。ところが、これを中国語で表現してみましょう。私は実際のところ、中国語がほとんどわかりませんが、ひとつだけ知っているのは、「中国語では、全ての動詞は、be(「在」)である」ということです。つまり、中国語では、すべての動詞を、あなた様の言う「静的な」動詞なのです。(ここで私の中国語に関する知識が正しいかどうかということは関係ありません。比較言語学的知識としては、「静-動」という命題の述語の性質の区別は言語により存在しない、という知識があればよいのです)

    述語に「静-動」の区別がないということは、命題に「静-動」の区別もないということです。ですから、全言語に敷衍されるべき私の命題計算システムの持つ言葉や文の属性として、「静-動」を採用することは、地理的・文化的・ないし言語的な普遍性という観点からは、不都合ということになるのではないかと思います。

    いかがでしょうか? ご異論があれば、ぜひ拝聴したいと思います。

この質問への反応(ブックマークコメント)

「あの人に答えてほしい」「この質問はあの人が答えられそう」というときに、回答リクエストを送ってみてましょう。

これ以上回答リクエストを送信することはできません。制限について

回答リクエストを送信したユーザーはいません