ネット上で「中国の《注音字母》は日本軍が教えた」という話を時々目にします
>北京語と言うと、現在では中国の公用語ですが、文字の普及率が普及したのは1912年に旧日本軍の指導
>に依って<注音字母>を制定してからで有ったと認識して居ります。
http://www.hehehe.net/library/lib/E-00061.html
>君たちの母国語である北京語の元に成っている〈注音字母〉でさえ、旧日本軍から習ったんだせ。
>この事は歴史的事実でなんだよ。
>Posted by 干城 at 2008年05月12日 20:42
http://blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/51912950.html
こちらのブログのコメント欄でも議論になったのですが,
>2010年07月24日 新たなる街頭行動・排外主義
http://megalodon.jp/2010-0728-0920-33/blog.livedoor.jp/the_radical_right/archives/52526495.html
「《注音字母》は日本軍が教えた」証拠となる資料,
または
「《注音字母》は日本軍が教えたものではない」証拠となる資料があれば教えて下さい
「注音字母」(Zhuyin Fuhao、俗語でBopomofo)に
ついていえば、私が参照した下記の文献では、成立に
日本軍の関与はありません。
John De Francis, "Nationalism and Language Reform in Chine", (Princeton University Press): その第4章"One State, One People, One Language"がPhonetic Alphabetの成立と普及、あるいは普及の失敗について述べているもので、ウェブでは次で読めます:
http://www.pinyin.info/readings/texts/DeFr1950.html
なお、上記書物の執筆時期を考えると、「米国人だから日本の軍隊の記述を意図的に省いた」という疑いをもたれるかもしれません。しかし、きちんと読めば、誰がどういう風に提案し、何十人からなる委員会がどう成立し、そこでどういう意見の対立があって。。。というように記してあるので、仮に制定委員の中に日本軍部と親しかった人がいたとしても、その意見を通すのは難しかったことがよみとれます。また、その委員会の中では、現在の形に定まるまで、日本語のカナ方式、速記文字を含めていろいろな案がとびかったことがよみとれます。
なお、ある程度普及した1924年には満州国では漢字を使用すべしとして、注音字母を禁止したそうです。
「注音字母」(Zhuyin Fuhao、俗語でBopomofo)に
ついていえば、私が参照した下記の文献では、成立に
日本軍の関与はありません。
John De Francis, "Nationalism and Language Reform in Chine", (Princeton University Press): その第4章"One State, One People, One Language"がPhonetic Alphabetの成立と普及、あるいは普及の失敗について述べているもので、ウェブでは次で読めます:
http://www.pinyin.info/readings/texts/DeFr1950.html
なお、上記書物の執筆時期を考えると、「米国人だから日本の軍隊の記述を意図的に省いた」という疑いをもたれるかもしれません。しかし、きちんと読めば、誰がどういう風に提案し、何十人からなる委員会がどう成立し、そこでどういう意見の対立があって。。。というように記してあるので、仮に制定委員の中に日本軍部と親しかった人がいたとしても、その意見を通すのは難しかったことがよみとれます。また、その委員会の中では、現在の形に定まるまで、日本語のカナ方式、速記文字を含めていろいろな案がとびかったことがよみとれます。
なお、ある程度普及した1924年には満州国では漢字を使用すべしとして、注音字母を禁止したそうです。
回答ありがとうございます
ご紹介いただいた資料には,
最終的に,Chang Ping-lin(章炳麟)が作ったものがChu-yin Tzu-mu(注音字母)になったという記述があり,MS903-Doraemonさんも挙げている資料「「国語運動」と注音符号 」内の記述とも一致していますし,信憑性があると思います
ウィキペディアの「章炳麟」の項目にも「注音字母の発明」が功績として挙げられていますね
>国学の大成
>すぐ思いつく成果だけでも、注音字母の発明(現在も台湾で使われている)、「中華民国」という呼称の制定、中国語諸方言を音韻学と結合させ新分野を開いたこと、戴震『孟子字義疏証』の思想的意義の顕彰等、枚挙に暇がない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/章炳麟
章炳麟は日本に留学していますが,注音字母の発明に日本軍に関係していたという証拠はなさそうですね
古くから仮名をもつ日本語と違い、中国語は未だに外来語が自国語の文字だけで上手に表記できない言語だと思っていました。分かり易いのは一例としてカラオケは「卡拉OK」だという事などが挙げられます。
そんなこんなで興味深いテーマだと思いましたので調べてみました。
「『《注音字母》は日本軍が教えたものではない』証拠となる資料」が見つかりました。
http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/123456789/13767/1/No2p105...
このpdfファイルの論文に詳しく書かれていますが、「日本軍」の文字は見つかりません。
念の為、中国に好意的でない感じのする方の書いた意見も見てみました。
http://www.asyura2.com/0401/bd33/msg/233.html
この中にも「《注音字母》は日本軍が教えた」とは一言もありません。
尚、最初の論文は、作者の赤嶺守さんが琉球大学法文学部国際言語文化学科教授です。
http://kenkyushadb.lab.u-ryukyu.ac.jp/profile/ja.tMn68SIJ6ialg8E...
ですので、一般的にネットで見られるブログなどに掲載されている「よく調べもしないで書いた可能性が有る記事」に比べると信頼性は高い物だと言えます。
回答ありがとうございます
ご紹介いただいた資料は,この質問の発端となった「コメント欄での議論」の中で,shinok30も紹介したものなんですよ
>でも,実際には,いくつかあった《注音字母》案の中から,
>「古文篆籀の逕省之形」を援用した「簡筆漢字」を用いた「記音字母」が採用されただけですよ
>「筆画を少なくした略字」を用いていることから「日本の仮名の応用ともいえる」だけで
>日本の仮名とはあまり似ていませんし,「日本軍が教えた」なんて事実もないでしょう
>
>Posted by shinok30 at 2010年07月24日 23:38
>
>>この時期、読音統一会が検討した39個の注音字母方案は20~30種類あり、大きく呉敬恒・邪島等のローマ字を
>>採用した「羅馬くローマ>字母派」、王照・ 汪栄宝らの漢字の偏や労を援用した「偏秀派」、李良材・胡雨人
>>等の新たな符号制定を主張した「符号派」の三類に分けることができる(注18)。最終的に、断江会員の馬裕藻
>>・朱希祖・許壽裳・銭稲孫および周樹人等が強く推した章炳麟の「簡筆漢字」を用いた「記音字母」が
>>「注音字母」として正式に通過した。この簡筆漢字は「古文篆籀の径省の形」を援用したもので、
>>「減筆漢字」ともいい、筆画を少なくした略字のことである。注音の方法としては従来の漢字を用いた
>>直音法、その後の反切法とは異なり、日本の仮名の応用ともいえる。
>http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/123456789/13767/1/No2p105...
>
>Posted by shinok30 at 2010年07月24日 23:38
http://megalodon.jp/2010-0728-0920-33/blog.livedoor.jp/the_radic...
MS903-Doraemonさんのおっしゃる通り,
筆者の赤嶺守さんは琉球大学法文学部国際言語文化学科教授で,中国琉球関係史を専門とする研究者としての業績もあり,
http://ci.nii.ac.jp/author?q=赤嶺+守
ブログなどで「よく調べもしないで書いた可能性が有る記事」に比べると信頼性は高いと思いますね
注音字母を1900年に考案したのは王照という人で、日本のカタカナに影響を受けてということです。その後中華民国で正式採用されたので、戦後は台湾のみで使われています。日本との交渉については、こういう論文があります。
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000227751
<研究報告>王照と伊沢修二 : 清末文字改革家の日本との交渉
伊沢という人は日本の教育学者ですが、日清戦争後、1895年から台湾で初等教育普及に携わっているので、「中国語のカタカナ」とも関係があるのかもしれませんね。朝鮮のハングルも発明したのは朝鮮人ですが、普及させたのは日本人ですね。
回答ありがとうございます
>注音字母を1900年に考案したのは王照という人で、日本のカタカナに影響を受けて
MS903-Doraemonさんやsibazyunさんからご紹介していただいた資料によれば,
実際に,「注音字母」として採用されたものは,Chang Ping-lin(章炳麟)が作ったもので,
偏旁派の王照さんが1900年に考案した「官話合声字母」は不採用だったのではないでしょうか?
>王照さんの考案した「官話合声字母」は漢字の偏や旁を援用した「日本語のカタカナに似たもの」で,
>《注音字母》として採用された「簡筆漢字」を用いた「記音字母」とは別物なんですけどね
>
>>王照は漢字の筆画を活用し、切音字を考案した人物である。日本の片仮名を真似て、漢字の偏旁を
>>組み合わせ、官話合声字母を考案した。時の京師大学堂総教習である呉汝綸に好まれ(5) 、官学大臣で
>>ある張百熙に推薦され、一時期、北方地域を中心に流行したが、思想的に危険な一面もあり、うまく
>>はいかなかったのである。しかしこの理論は北京語音を国語の標準音とする基礎を作ったのである。
>http://kite.meikai.ac.jp/japanese/meikainihongo/7/nakagawa.pdf
>Posted by shinok30 at 2010年07月25日 22:50
http://megalodon.jp/2010-0728-0920-33/blog.livedoor.jp/the_radic...
以下の資料でも,「王照が考案しパイル博士が改変した官話字母」はローマ字とともに,
有力候補の一つだったものの,1918 年の中華続行委弁会の特別委員会では「注音字母」が採用され,
その後,キリスト教界でも「注音字母」が普及していった,とありますね
>庶民のための書き言葉を求めて
>―清末から民国へ
>蒲 豊 彦
>
>
>1916年にChinese Recorder上で文字改革の議論を再燃させたのは、官話標準システムではなく、王照
>の官話字母だった。王照は、進士となったのち郷里に小学校を設けて教育に携わり、戊戌政変の際
>には日本に亡命した人物である 。そののち、1900年に『官話合声字母』を出版した。王の官話字母
>は、中国の伝統的な反切の原理に基づいて、基本的な音声を声母と音母に分解してそれぞれに記号を
>定め、その2種類の記号の組み合わせでひとつの音声を表示するものである。記号は漢字の一部分を
>取り出して作っているため、 日本語のカタカナに似たものもある。
>
>王照は北京を中心に活動し、1905 年にはその官話字母が大流行するまでになっていた (61) 。
> 一方、1917 年 12 月には、廈門長老教会大会(synod)が、翌 18 年の年末までに廈門地区の教会
>関係者全員が方言版聖書を読めるようにするという、野心的な計画を採択し、それはローマ字システム
>によるものとされた (62) 。またメソジスト監督教会福州大会も同様の計画を進めていた (63) 。
>ところが、翌 1918 年は教育部が注音字母を公布する年である。 こうして同年までに、
>「3 つのシステムがとくに注目され、急速に使われるようになっている。政府による簡略化中国語
>システムである注音字母、王照が考案しパイル博士が改変した官話字母、そしてローマ字化である」
>という事態が出現していた (64) 。パイル(Peill) は王照のシステムを、北方官話に近い各種方言
>にも適用できるように改変していた (65) 。 またここでいう「ローマ字化」とは、廈門、汕頭、寧波
>などのローマ字方言を指している。
> つまりこの段階で、宣教師たちがかつてあれほど苦労して作り上げた官話標準システムは、もはや
>論外とされてしまった。それにかわって、官話字母と注音字母という中国人の 考案したシステム
>が浮上し、宣教師たちにとって中国語の表記法の問題は、こうして1918 年までに再び混乱に陥って
>いた。その後、中国語の表記法をめぐる動きは、1920 年代を通して、統一への志向と拡散とをさらに
>繰り返す。
> まず、1918 年 4 月に開かれた The China Continuation Committee(中華続行委弁会)の第 6 回
>年次大会で、表記法の問題を検討するための特別委員会が組織され、9 月 24、25 日 に上海で会合
>をもった同委員会は、注音字母の採用を全会一致で決めた (66) 。ロンドン宣教会の北部中国地区
>委員会は、7 月以前にすでにメンバーにこのシステムを推奨していたが(67) 、1919 年に入ると、
>YMCA や YWCA の総会、宣教師の夏の集会などで教授されたほか、日曜学校連合(Sunday School
>Union)や各種聖書協会も同システムを推進し (68) 、上海や蘇州などの宣教師が呉語にも適用する
>ことを推奨し、山東のイングリッシュ・バプティスト・ミッションでは、地方の学校や大人のための
>夜学で使うことを決め(69) 、武漢でもキャンペーンが行われるなど (70) 、注音字母に向けた動き
>がキリスト教界で加速する。
> さらに 1920 年には、「昨年もっとも重要だった前進は注音字母の普及である」とされ (71) 、
>一貫してローマ字システムを使ってきた福建でさえ、同年夏には、福建キリスト教教育会の年次総会
>で、ローマ字がうまくいっているところではローマ字を継続し、新しい表音システムが容易なところ
>ではそれを福州方言に導入することを承認した (72) 。
成立に
日本軍の関与はありません。
http://megalodon.jp/2010-0728-0920-33/blog.livedoor.jp/the_radic...
だから,そのブログのコメント欄での議論が今回の質問の発端なんですよ
回答ありがとうございます
ご紹介いただいた資料には,
最終的に,Chang Ping-lin(章炳麟)が作ったものがChu-yin Tzu-mu(注音字母)になったという記述があり,MS903-Doraemonさんも挙げている資料「「国語運動」と注音符号 」内の記述とも一致していますし,信憑性があると思います
ウィキペディアの「章炳麟」の項目にも「注音字母の発明」が功績として挙げられていますね
>国学の大成
>すぐ思いつく成果だけでも、注音字母の発明(現在も台湾で使われている)、「中華民国」という呼称の制定、中国語諸方言を音韻学と結合させ新分野を開いたこと、戴震『孟子字義疏証』の思想的意義の顕彰等、枚挙に暇がない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/章炳麟
章炳麟は日本に留学していますが,注音字母の発明に日本軍に関係していたという証拠はなさそうですね