「自由」=その気ならばお好みに何でも出来るって、
間違った解釈ですよね。
物理の「自由落下」って、数式で示せる位、明らかに縛られまくっています。
自律的でないし、不自由だらけです。
同じく、ヒトの「自由意志」って結構機械的じゃないですか?
(内容はヒトによるとして)嬉しいと気が大きくなったり
怖い思いをした直後は理性が鈍って安全すぎる選択肢を選らんだり
(怖さを忘れたらまた普段に戻る)。
で、意志の力による感情を抑制した判断基準も
過去の経験則によるもの。(他人の意見に沿っておこうという決定も、本人の過去の経験)
だから、その人の「経験」に縛られているとも言えるのでは?
経験が妥当でないと、妥当でない方向に持っていかされる。
お金と同じで、感情・立場・状況という持ち分以上に、ヒトは意志を自律的に行使できない。
・無限大の自由意志
なんてありえませんよね。必ず範囲がある。範囲があることも「自由」?
社会の随所で詭弁や逃げに使われる。
「自由」「自由意志」って、結局何が言いたいんでしょう?
「自由意志」のどのあたりが自由?
どのように捉えておられますか?
インターネットを調べ物によく使います。
次の記載がありました。
wikipediaの自由
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1
wikipediaの自由意思
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E6%84%8F%E5%BF%9...
「自由」「自由意志」って、結局何が言いたいんでしょう?
回答
「自由」「自由意志」と言う用語は、一般的にも多様・多義に使われています。
従って、「自由」「自由意志」という用語を使う場合には、その多義のママ使っているのではなくて、 発言者が特定の意味で使っているはずです。
「自由」「自由意志」の言葉だけを いくら眺めても、『何が言いたいのか』はわからないと思います。
発言者のそれまでの発言の経歴や、今回発言された前の状況や文脈(TPO)をみて判断すべきでしょう。
wikipediaの自由意思の最後に、外部からの磁気刺激で動かす手を決定されたような状況なのに、被験者が自己の選択で動かす手を決めていると確信しているという記載もあります。
この場合、被験者にとって自由意思とは何でしょうか?
お金が沢山あるときには鷹揚に考え、貧して衣食に窮していればせこく考えるのは確かですが、
それでも『自由意思でいると通常は判断する』と思います。
通常は本人が『縛られている、強いられている』と感じないでいられるようになりたいと強く希求した時に、自由意思を尊重しろと言うのではないでしょうか。
社会や他人に対する自分の権利行使に関する希求、要望の心理と強く関係しているのが、『通常言う自由意思』だと思います。
[空を自由に浮揚したい]というような物理法則とは異なる期待や夢を持つことはあっても、そういう気持ちなどは、自由意思とは通常は言わないと思います。
また、恐怖症やその他の精神障害あるいは薬物摂取の結果、とてつもないことを希求したとしても、それを自由意思とは通常は言わないと思います。
通常の使い方(そうではない使い方もたくさんあると思いますが)では、その当時のその社会で理性的で興奮していない状態で、他人から強制されていると言う意識ではないと自分で判断し、これは自分の判断や意思だと本人が思っていることが、自由意思なのではないでしょうか。
人間は他人や社会との関係で生きているので、本人が自分の考え、自分の意思と思っていても、友人や尊敬する師の影響、社会的流行やその反動などが、その人の考えや意思に大きく影響を与えているのは当然です。 そうした社会や他からの影響、本人の過去の経験が強く影響していても、本人が他人から強制されていると言う意識ではないと自分で判断し、これは自分の判断や意思だと思っていれば、それは自由意思というものです。
思いっきり自分の考えていることや言いたいことが言えるという交通(人と人とのまじわり)にかんする取り決め これを 自由の原則と言い 考えや発言や広く表現行為にかんしてはおのれの自由意志にもとづくものであるという人間存在の条件といった事柄を言います。
言いかえると 人間の自由は 人と人との交通(まじわり)におけることであるからには 相手やほかの人びとから その自由にもとづく意志行為としての表現にかんして さらにその内容について説明を求められます。ここが分からんから説明して欲しいとか いやここは これこれこういう理由により間違っているのではないかとか 批評や批判にさらされているということを そのまま同時に 含み持っています。
したがってまとめるなら わたしの表現の自由は ほかの人びとからの説明要求に答え得ることを 同時に包み持っています。答責性とか説明責任とか言います。
自由意志と言っても どこまで自由で 社会からの制約がないかなどなど分からないところがあります。けれども 人の自己表現にかんする――公理のような――原則を言おうとしています。
人間は 問いと答えとその繰り返しの過程をあゆむということ このような当たり前の共生の原則を わざわざとしてでも 明らかにしたものが 自由ということがらです。
どうも有難う御座います。
>ほかの人びとからの説明要求に答え得ること
なるほど、興味深いですね!
自分で「自らの意志で選んだ説明ができる」場合に、自由意志を行使したと言えるのでは?
ということですね。
「答責性」という言葉があるのですね、勉強になりました!
>意志の力による感情を抑制した判断基準も
>過去の経験則によるもの。(他人の意見に沿っておこうという決定も、本人の過去の経験)
>だから、その人の「経験」に縛られているとも言えるのでは?
他人の意見や過去の経験が自らの意思や考えの「もと」になるのは、やむをえないことと思います。
他人の意見や過去の経験がいくつかあるなかで、何を選ぶか…、この取捨選択をするのは自分であるはずです。なので、これは自由意志だと思います。
その選択肢がない環境は、問題だと思います。
場合によりますが、選択肢が少なくとも2つあれば、それは自由といえるのではないでしょうか。
人は社会に生きている以上、周りからなにかしらの影響を受けているものです。
そんな、いつもいつも独創的な、画期的な、誰にも左右されない独自の発想で行動していたら、その人はノーベル賞をもらっているはずです^^
いかがでしょうか。
どうも有難う御座います。
>他人の意見や過去の経験がいくつかあるなかで、何を選ぶか…、この取捨選択をするのは自分であるはずです。
この「取捨選択」の規範も、
その人の経験則(さいころを振るとしても、そう決めることにした自分のいきさつがある)ですよね。
>他人の意見や過去の経験が自らの意思や考えの「もと」になるのは、やむをえないことと思います。
やむをえないどころか「人生それの繰り返し」と思っています。
数学でいう「ラプラスの魔」のような思いです。
高価な皿を落として割れたら
「今日割れるべくして割れたんだ」
と、言うイスラム教チックとも言えます。
こんな私が「自由意志」という言葉と、どの辺で折り合って付き合っていけばいいのかな?
(とはいえ、社会生活上困憊したり七転八倒して悩んでいるわけではないですが・・・)
と思って、ちょっと質問させていただいた次第です。
「人生は運命(因果)の繰り返し」と主張したところで、
いろいろなことから免責される理由に採用されないことは理解しているつもりです^^
「私は数々のいきさつによって今の職に就き、
日々苦労困憊させられてしまっている。
ストレス解消をしたくなり、昨日飲み屋で使いすぎた。
定食屋よ、今日の食事を恵んでくれ。」
->「私は数々のいきさつによって、食事を提供してお金をいただいて生活する運命だ。
食事を出すからお金をくれ。」
(脱線しますが
「ラプラスの魔」の運命論
(全世界あらゆる物体の現在位置と移動方向・速度が判っていたら、将来が予測できる)
は、否定的な証明がされているらしいですね。)
一般にイメージされる『自由』とは、現実的・物理的には、存在しません。
上記コメントのあるとうり、なんらかの制約のもとでの現象になります。
精神内、頭の中での想像でのみ、『自由』にでき、そもそも、『自由』とは、禅の世界から生まれた言葉みたいですよ。
どうも有難う御座います。
なるほど、禅の世界から生まれた言葉なんですね。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/nisida.html
こちらのページの
・禅と絶対自由意志―慧能について
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/ch2/u1/t5.html
・禅と絶対自由意志―臨済について
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/2663/ch2/u1/t6.html
を拝見しました。
なかなか難しい...
・両親から受けている保護からの「自由」
・自分の経験則と理屈からの「自由」
・列車の座席指定からの「自由」
・受け取るか否かについて、金銭負担他の条件無く
本人の都合で決められる決められる「自由」
(「ご自由にお受け取り下さい」)
といった感じに、自由という言葉を使うには
束縛している対象の説明が必要ですね。
「それは、あなたの自由です」という問いかけに
その自由といわれる元の対象を自分で補ってやらないとならないですね。
余談ですが
人によっては「自由(状態)を破壊する自由(⇒権利)」を
求める人もいますね。
「そんなのオレの自由(⇒権利?) だろ!」とか。
「自由気まま」:聞こえが良さそうですが、
自分の気分・感情には束縛される...
他の人がいない奥深い山中や、無人島でも、
自分の腹ペコ加減や寒暖の影響に付き合わざるを得ない。
空腹解消のための、採取行動や狩猟行動が促される。
インドやネパールの仙人のように、水を飲まなくても生きていけるなら
本当の自由人になれそうですね。
おそらく、仰るとおり
自由に見えても、実際は自由な意思決定は
ほとんどの場合でほとんどの人間はほとんど実行できていないはずです。
「自由」「自由意志」って、結局何が言いたいんでしょう?
ひとつは、自己責任として責任を個人に押し付けるための名分でしょう
もうひとつは、
合理的な行動選択が行える(そういう社会であり、そういう人間性を保障できる)理想として(現実的ではない)言っているのでしょう
どうも有難う御座います。
私が悶々としていたことを
とても明快にしていただいた感じです!
セールスマンから
「買う・買わないはあなたのご自由です」なんて聞くと
(短絡的ですが)詐欺師を思い浮かべてしまう私がいます。
当然、範囲があるでしょう。
私たちの、無限と言われる欲望(もっといえば妄想)の思いのままになったら、
法律も道徳もなく、何してもいいことになってしまう。いや、それが当たり前の社会になる。
それは、自由とはいえないでしょう。
飽くまで、自分がなされて不利益となるような、殺人、強盗、詐欺などを取り締まり、
制限しているからこそ、平和に安心して暮らせるわけで、
自由というのは、単に束縛されないのとは違います。
社会においては、自由というのは、自分を理由とすると書くので、
自分が選択できるわけですが、当然、自分が選んだ選択には責任が伴います。
しかも、他人の自由を犯すような選択肢は選ぶことは許されないことになります。
自由とは何か。
自由や平等という概念自体は、もともとはキリスト教国家で生まれ、
しかもそれは神から与えられたとする権利だったから、
科学的あるいは論理的に厳密にそこを追求していってしまうと、
コペルニクスやガリレオの地動説辺りからもはや科学と対立してるキリスト教の
作り出した「自由」の概念自体が、崩壊すると思います。
とりあえず、多く人間が集まる上で都合がいいように法律に定められている概念の一つにすぎません。
根拠があいまいなそういう概念の元に成り立つ、自由●●党、なんかも崩壊同然なわけです。
民主党も似たようなもんだけど。
どうも有難う御座います。
>多く人間が集まる上で都合がいいように法律に定められている概念の一つにすぎません。
このお言葉に、凝縮されているかな...と思いました。
概念であって、物質のように実在するものではないんですよね。
>自分を理由とすると書くので、
>自分が選択できるわけですが、当然、自分が選んだ選択には責任が伴います。
そうなんですよね。
おそらく本来「自らを理由とする」という意味以上の上も下もないんですよね。
「自由」と聞いて、勝手気まま、責任無し、無制限、放置、などに直結させてしまうのは
とんだお門違いなんですよね。
LibertyとFreedomの違いがありますね。
日本では自由と言う言葉に集約されていますが、アメリカでは上記2つの言葉が存在します。libertyは義務を履行する者に与えられた権利freedomは奴隷の解放による放任と言う感覚でとらえられています。
ご質問の内容からすると、感覚的にとらえている自由と言うのはlibertyに近い感覚です。要は法令や過去の自分の経験則から、直面する課題を遂行するにあたり、闇雲に無制限で行動できるのではなく、ある制約の範囲の中で許容範囲を持って行動をするという概念と捉えているように感じます。
一方でアメリカの奴隷解放に至っては、奴隷たちを山里に押しやりそこでは何をやっても構わないという自由を与えたという感じのものです。要は何をやってもいいという感じの自由。
現代社会においては、法令等の制約要因が複雑に存在するため、ご質問内容通り一定の許容範囲の中で行動が可能な状況ととらえればいいでしょうし、私自身もそう思っています。
どうも有難う御座います。
・本人の意思の行使権利:liberty
・我儘放蕩的、好き勝手、自由気まま:東洋で古代から用いられている用法、freedom
この2つの意味が同じ「自由」という言葉で表現されているから、
滅茶苦茶になってしまっている感じですね。
言葉や訳が人々へ影響を与える代表例ですね。
「責任」という言葉についても
dutyとresponsibilityとごっちゃになってしまっている感じです。
外国人がresponsibility(反応、対応しろ?)を求めているところを
日本人はduty(負担しろ?)を求められていると解釈して憤慨している様子など。。
(英語に詳しくないので、間違っていたらスミマセン...ご指摘下さい)
お蔭様で訳語だったことを思い出し、改めて調べなおしてみました。
libertyを「自由」と訳したのが福沢諭吉さんだったことを
再認識しました。学校や伝記本で習っていたのですが、すっかり忘れてしまっていました。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/t-shinya/yowa58.html
libertyの訳として「自在」や「天下御免」などの候補があったようですね。
>アメリカの奴隷解放に至っては、
>奴隷たちを山里に押しやりそこでは何をやっても構わないという自由を与えたという感じのものです。
>要は何をやってもいいという感じの自由。
新天地(フロンティア)みたいな場所が、freedomといった感じでしょうか。
米国の奴隷解放は、首縄つけて働かされるより遥かにマシで画期的とはいえ、
何だかリストラしただけみたいな感じですね。。
自由ですが、法解釈だと正式には「法律の範囲内で許容される随意の行為」とされています。
落下にも法則がありますが、その法則の範囲内で自然落下している状態を
自由落下と考えれば、納得できる部分が有るのではないでしょうか。
各自己の中にも、それまでの人生を通じて築きあげて来た、
その人なりの生き方やルールのようなものがあります。
その許容範囲内での随意な行為という解釈が、
例に挙げられておられる様な場合の自由に該当する様な気がします。
4の解釈です↓
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?p=%E8%87%AA%E7%94%B1&enc=UTF-8&st...
どうも有難う御座います。
>それまでの人生を通じて築きあげて来た、
>その人なりの生き方やルールのようなもの
確かに
自分の身体感覚や経験知識を含めて
どんな存在からも作用されない、なんてこと有り得ないですね。
自由落下している物体について
数式の法則に拘束されている(他から作用を受けている)と考えるのではなくて
その物体の「意志」「生きるルール」(自らそうしている、そうなっている)として
解釈してあげるのが筋なのでしょうね。
本人都合とみるか、他からの影響によるのか、どこで線引きするか?ですね。
この線引きも、その概念を使う人が実用的な位置に決めることであって、
明確に物理的・超客観的に引かれているものではないものなんですよね。
どうも有難う御座います。
>発言者が特定の意味で使っているはずです。
>「自由」「自由意志」の言葉だけを いくら眺めても、『何が言いたいのか』はわからないと思います。
そうなんですよね。多義的、曖昧。
発信者と受け手とで思いがずれて、釈然としないことがあります。
>自由意思でいると「通常は」判断する
「通常は」「常識として」「当たり前な」「当然に」
のままだと何も説明にならないので、ちょっと質問してみました。
もっとも、私のようにこんなこといちいち考える人は少ないと思いますけどね。。
>本人が他人から強制されていると言う意識ではないと自分で判断し・・・
要するに、本人がどう思うか?ということになるのでしょうかね。
このときの強制されたか強制されていないかという
この意識自体そもそもは自律した意識なの?
ということです。
薬物摂取の事例がありましたが、
新興宗教やセールスマンから高額の品を買ったとき、
原価より数倍以上の売価なら、例外なく自由意志ではないのか?
「悪徳」セールスマンから買ったら「自由意志」ではないのか?
世間のほぼ全員が「私なら納得して買う」と思うことなら
「自由意志」の範囲なのか?
さすがに商行為については法律で「線引き」されていると思いますけれど、
他のシチュエーションでのこの言葉の用途は、多義的で実に曖昧な言葉なんだな、と思いました。