歴史上の軍師や知将で、意外な方法で敵を攻略したエピソードがあったら教えてくださいm(__)m

※日本でも海外でもOKです。

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  • 終了:2010/03/29 14:38:59
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ベストアンサー

id:ohimesama No.8

回答回数44ベストアンサー獲得回数7

ポイント35pt

伝説の域を出ませんが、村上義清の「白米伝説」はどうでしょうか。

北信濃東部の要所である砥石米山城で武田信玄を迎え撃った村上義清。

村上方は信玄の攻撃を良く防ぎ、信玄は大変苦戦しておりました。

そんな中、砥石城は武田方によって水の補給路を断たれてしまいます。

兵糧米の備蓄は豊富にあるものの、水がなければ人間は生きていられません。

そのことを信玄に悟られれば不利になると考えた義清は一計を案じます。

まず武田方から見える位置に軍馬を引かせました。

そして備蓄の白米を桶に満たすと、それを軍馬の背に流しかけました。

その様子は遠目にはまるで豊富な水で馬を洗っているかのように見えたと言います。

これを見た武田方は、

馬を洗えるほどに豊富な水があるとすれば、兵糧攻めも効果が薄い

と考えて、撤退を始めました。

以上、「砥石崩れ」と言われる信玄の敗戦時のエピソードとして、地元に伝えられている話です。

http://www.shinshu-liveon.jp/www/topics/node_93091

http://www.avis.ne.jp/~torebi/new30.html

id:atsu11

こういうのいいですね^^

ありがとうございます。

2010/03/25 15:26:44

その他の回答9件)

id:powdersnow No.1

回答回数1301ベストアンサー獲得回数65

ポイント5pt

羽柴秀吉の「水攻め」なんていうのは、有名すぎるので他のを。

戦国武将の淡河定範は、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の弟・秀長と対陣した際、

敵陣に向けて牝馬を放ち、敵の牡馬が反応した混乱に乗じて敵を破ったという話があります。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ougo_ak.html

http://8.health-life.net/~susa26/zakkityo/nihongaisi/no.12/mouri...

id:atsu11

たしかに以外ではあるんですが、最近テレビで見たんだよなぁ~・・・。

でも、ありがとうございます。

2010/03/24 22:54:40
id:chincle No.2

回答回数74ベストアンサー獲得回数1

ポイント5pt

ジャスパー・マスケリンはいかがでしょうか?

テレビでも紹介されたのですが、手品でドイツ軍と戦ったことで有名です

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%9...

id:atsu11

これはちょっと有名かなぁ~・・・。

でも、ありがとうございます。

2010/03/25 15:12:44
id:Baku7770 No.3

回答回数2832ベストアンサー獲得回数181

ポイント15pt

http://clubstay.jp/kanrinin-yasen3.html

河越夜戦。

 8万の敵に囲まれた3千の兵を救いに8千の戦力で出陣。敵が攻撃を仕掛けてきたら退却を繰返し

敵に戦意なしと油断させておいて、一気呵成に攻め立てた。その際、鎧兜は脱ぎ捨てて戦ったと伝え

られています。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%B3%E5%B3%B6%E3%81%AE%E6%88%A...

厳島の戦い

 まず敵方の江良房栄が「謀反を企てている」というデマを流し、本人の筆跡を真似て内通を約束した

書状まで偽造し、敵の手で江良房栄を暗殺させます。

 次に宿老であった桂元澄に「陶軍が厳島に上陸して宮ノ尾城を攻撃すれば、元就も渡海して救援に

駆けつけるだろうから、その間に毛利の本拠、吉田郡山城を占拠する」と約束させ、敵のスパイが

潜り込んだ会議の席で「厳島に宮ノ尾城を築いたのは失敗だった。もし陶軍がすぐに攻めてきたら、

ただちに落城してしまうだろう。救援を送るには軍船の数が足りないし、城の普請が完成するまで

陶軍の来襲がないことを願う」と発言して、陶軍を厳島にひきつけます。

 当日は嵐で大荒れの海を明かりもつけずに渡海。一方、別働隊は援軍に来たと偽り堂々と正面から

上陸しています。

 

id:atsu11

鎧兜を脱ぎ捨てて戦った・・・っていうのは良いんですけど、もうちょっと意外な感じがほしいなぁ・・・。

ありがとうございます。

2010/03/25 15:16:27
id:aimsouri No.4

回答回数67ベストアンサー獲得回数5

ポイント5pt

妙林尼なんかいかがでしょうか?

女性が大将で戦に勝ったという珍しいケースでもありますし

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%99%E6%9E%97%E5%B0%BC

id:atsu11

珍しいケースではあるんですが、策略的に意外な感じがしないような気がします・・・。

でも、ありがとうございます。

2010/03/25 15:20:16
id:pocori No.5

回答回数250ベストアンサー獲得回数27

ポイント10pt

空城の計 三国志 諸葛亮 威信があればはったりでも兵は動く。


わざと城門を開き、何か計略があると思わせ、敵の判断を狂わせるという計。以下は原文の訳。 


「劣勢のときは無防備に見せ、敵が疑心暗鬼になるようにする。剛と柔が対峙したときは奇策が奇策をうむのである」


実戦での使われ方

第一次北伐で諸葛亮が敗北し撤退した際、小城に籠もった。司馬懿はそれを追撃して城に迫ったが、諸葛亮は城門を開放し、城壁の上で琴を弾き始めた。これを見た司馬懿は疑心暗鬼に陥り兵を引いたという。

http://my3594.net/wiki/%E7%A9%BA%E5%9F%8E%E3%81%AE%E8%A8%88

id:atsu11

諸葛亮は有名だからなぁ・・・。

でも、ありがとうございます。

2010/03/25 15:21:04
id:lebron23 No.6

回答回数27ベストアンサー獲得回数0

ポイント5pt

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E8%91%9B%E4%BA%AE

どうでしょう?

かなり頭がいいと思われる

作戦、戦術を

使っています。

id:atsu11

諸葛亮の場合はwikiに載ってないようなもので、意外なものだったらいいんですけどね(^o^;)

でも、ありがとうございます。

2010/03/25 15:22:03
id:australiagc No.7

回答回数467ベストアンサー獲得回数90

ポイント50pt

有名なものしか知りませんが・・・。


淡河定範の牝馬と同じ路線で有名なものなら、源氏の木曽義仲が倶利伽羅峠で使った火牛の計でしょうかね。

牛を火で煽って敵陣へ向けて暴走させる計略です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%B6%E5%88%A9%E4%BC%BD%E7%BE%8...

正確にはこの話は後付で、元ネタは斉の田単だと言われています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E5%8D%98


地味な路線だと、徳川家康が三方が原で武田信玄に敗れた後に用いた空城の計。

絶対的に不利な状況下で、城を開け放って無防備な状態を晒し、逆に敵を警戒させて撤退に追い込む作戦です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E5%9F%8E%E8%A8%88

諸葛孔明が魏に敗れた時に用いた作戦としても有名ですね。


近代戦になりますが、日本海海戦で秋山真之が考案した丁字戦法も当時は意外だったかと。

敵艦隊に横腹を晒す代わりに、こちらは全艦の全砲台を敵正面に集中できるという、攻撃を重視した捨て身覚悟の戦法です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%81%E5%AD%97%E6%88%A6%E6%B3%9...


おまけで神話ですが、オデュッセウスがトロイ攻略の際に提案したトロイアの木馬。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%82%A...

id:atsu11

いっぱい出していただいたんですけど、どれも有名だったり、意外性に欠けたりしますねぇ・・・。

でも、ありがとうございます。

2010/03/25 15:25:28
id:ohimesama No.8

回答回数44ベストアンサー獲得回数7ここでベストアンサー

ポイント35pt

伝説の域を出ませんが、村上義清の「白米伝説」はどうでしょうか。

北信濃東部の要所である砥石米山城で武田信玄を迎え撃った村上義清。

村上方は信玄の攻撃を良く防ぎ、信玄は大変苦戦しておりました。

そんな中、砥石城は武田方によって水の補給路を断たれてしまいます。

兵糧米の備蓄は豊富にあるものの、水がなければ人間は生きていられません。

そのことを信玄に悟られれば不利になると考えた義清は一計を案じます。

まず武田方から見える位置に軍馬を引かせました。

そして備蓄の白米を桶に満たすと、それを軍馬の背に流しかけました。

その様子は遠目にはまるで豊富な水で馬を洗っているかのように見えたと言います。

これを見た武田方は、

馬を洗えるほどに豊富な水があるとすれば、兵糧攻めも効果が薄い

と考えて、撤退を始めました。

以上、「砥石崩れ」と言われる信玄の敗戦時のエピソードとして、地元に伝えられている話です。

http://www.shinshu-liveon.jp/www/topics/node_93091

http://www.avis.ne.jp/~torebi/new30.html

id:atsu11

こういうのいいですね^^

ありがとうございます。

2010/03/25 15:26:44
id:serizawayui No.9

回答回数97ベストアンサー獲得回数4

ポイント5pt

http://sangokushi.jp/beginner/detail.php?beginner_id=16

三国志関係ですが

弓矢を騙し取った方法です

 有名かな・・・

id:atsu11

僕が三国志を好きだからなのかもしれませんが有名ですね(^o^;)

でも、ありがとうございます。

2010/03/25 18:00:53
id:goldwell No.10

回答回数502ベストアンサー獲得回数61

ポイント15pt

1.楠木正成

自身の篭もった千早城に鎌倉幕府軍が攻め寄せた際、様々な方法で寄せ手を迎撃しました。

http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2009/02/post-9fcc....

  • 藁人形の策

ある日、正成はわらで作った武者人形を20~30体用意、夜のうちに城外の山の麓に人形を並べておきます。

やがて、白々と夜が明けるところを見計らって、後方から一斉に鬨(とき)の声を「わぁ~~」っと・・・長期の籠城に絶えられなくなった兵が、決死の攻撃に出たと思った幕府軍は一斉に雨あられのように矢を射かけます。

しかし、当然の事ながら、いくら矢を射かけでも兵(人形)は倒れず、やがて、矢が底をついてしまい、更なる攻撃をと敵が前に殺到したところで大石を投げ落とす・・・これで、敵兵は300人が即死し、500人が負傷、しかも、正成は、新たなる10万本の矢を手に入れる事ができた・・・

  • 「長梯子の計」

なかなか落ちない千早城に業を煮やした幕府軍が、京都から5000人の大工を呼び寄せ、幅4.5m長さ30mのハシゴを造らせ、これを向かい側の山から城壁へと渡して、新たなルートを確保・・・そこから一気に城内へ攻め寄せようとしたのです。

これに気づいた正成は大量の水鉄砲を用意し、その水鉄砲の中に油を仕込み、ピュッピュ、ピュッピュとハシゴに向かって噴射!

たっぷりと油がしみこんだハシゴに、今度は燃え盛る松明(たいまつ)を投げつけ、ハシゴは一気に炎に包まれます。

驚く前方の兵の足は止まりますが、「一気に進め~!いてまえ~!」と指示されている後方の兵は止まらず、押し合いへし合いになったハシゴの上は大混乱!

しばらくして、中ほどから焼け落ちるハシゴとともに、兵は谷底へ・・・

どこかで聞いた話だなぁと思えば、「三国志」で諸葛孔明が取ったと思われる策なんですね。まぁそういう逸話が作られるくらい、正成が智恵を絞って幕府の大軍から城を守ったということなんでしょう。

ほかに押し寄せる敵兵を巨石・大木・熱湯・糞尿!をもって撃退したという話があるそうです。

http://homepage3.nifty.com/aming/dai-nankou-1.htm




2.三国志時代の後、晋(東晋)時代の名将・祖逖の取った奇策

http://iwakitakayuki.blog119.fc2.com/blog-entry-64.html

簡単に書かれたURLが見つからなかったので要約すると、長引く篭城戦の中で祖逖は一計を案じます。

麻袋に土をつめて兵粮に見せかけ、1千余人を動員してそれを運ばせる。また、別に数人を使って本物の米を運ばせた。

それを目撃した敵軍は、自軍の兵糧の少なさに戦意を喪失した上に、補給部隊を待ち伏せされて兵糧を奪われ、撤退することになったということです。




3.国士無双と呼ばれた漢の名将・韓信

「背水の陣」が有名ですね。ほかにこんな詭計も。

渡河しようとする漢軍に対して渡し場を封鎖して待ち構える魏軍。

これに対し、韓信は実に柔軟だった。

河水に船を多数並べ、力押しで渡ろうとしていると見せかけて、裏では密かに別軍を派遣し、夏陽から渡河させていたのである。

しかし、大規模な軍事行動は即魏軍に察知されてしまう。

数千人分が渡河するための民船を徴発したりすれば、敵に作戦が筒抜けとなってしまう。そこで、韓信は独創的な案を出した。

民間から木の桶を徴発し、それを縄で繋ぎ合わせ、その上に板を乗せて船の代わりとしたのだ。

夏陽から密かに渡った別働隊は、蒲坂で韓信本隊と対峙している魏軍など無視し、一気に魏の首都安邑を衝き、すぐにこれを占領した。

「魏都占領される」の報は瞬く間に広まり、魏豹を激しく狼狽させた。

前に韓信、後ろに別働隊。いつの間にか挟撃され、首都は奪われているのである。

魏豹はまるで悪夢でも見ている気持ちであったであろう。

http://kanso.cside.com/kanshin05.htm

id:atsu11

3は、ちょっとおもしろいですね^^

ありがとうございます。

2010/03/26 22:32:56
  • id:serizawayui
    こういう質問する人は三国志は好きですよね~
    他にもいろんな奇策が出てきますからね
  • id:atsu11
    でも、僕が一番好きなのは、諸葛亮とかの軍師じゃなくて
    趙雲子龍なんすけどね(^o^;)
  • id:australiagc
    奇策ってそもそもどうしようもない状況下で、已む無く採用するもんですからね。
    優秀な軍師や知将であればあるほど、逆にそういった状況に陥ること自体を避けるので。
    決戦にはじめから奇策を用いるつもりで望むことは愚策とされ、まずメジャーな戦いではあまり起こらないんですよね。

    また有名どころですが、思い出したのをいくつか。

    馬陵の戦いで、斉の孫臏は撤退行の間、毎日竈の数を減らして自軍の兵力を魏の龐涓に誤認させ、驕って油断したところを奇襲殲滅した話。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E9%99%B5%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

    それから関ヶ原の戦いでの島津の退き口も個人的には意外でしたね。
    わずか数百の兵力で関ヶ原に布陣した島津義弘は、勝敗が決して西軍が退却をはじめると、
    敗走兵と追撃兵で満ちている後方はあえて避け、逆に小康状態の戦場を前進して敵陣中央を突破することで関ヶ原を脱した。
    http://www.mirai.ne.jp/~wakita/simadu/simazu.htm
  • id:atsu11
    島津の退き口は、僕もけっこう好きです^^
    でも、思いのほか兵士が死んじゃってるんですよね。。。
  • id:australiagc
    まあ、あの少数での退却戦ですからね・・・。
    大将が生き残った事だけでも評価してあげようかなあと。

    大勝利の類いがお好みなら、海戦だとトラファルガーとサラミスですかね。
    日本海海戦もそうですが、海戦で大勝利を得るための基本は如何に敵の戦力を封じ、
    こちらの戦力を最大限に活かせる状況を作り上げるかですね。

    日本史だと、あとは川越城の戦いですか。
    北条綱成が3千の兵で守る川越城を、連合軍8万が包囲。
    援軍に駆け付けた北条氏康軍の6千が夜襲をかけると、油断しきっていた扇谷上杉の陣は大混乱に。
    そこへ城内で戦況を見守っていた綱成が足利晴氏の陣に「勝った、勝った」と叫びながら突入すると、
    足利軍は総崩れとなり、結果として10倍の兵力を打ち破った。
    結果は凄いけどただの奇襲なんで意外性はありませんかね・・・。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/河越城の戦い

    後北条家だと、創始者早雲の小田原城攻めもちょっと面白いですね。本当かどうか知りませんが。
    >>
    ある日、早雲は箱根山での鹿狩りのために領内に勢子を入れさせて欲しいと願い、藤頼は快く許した。早雲は屈強の兵を勢子に仕立てて箱根山に入れる。その夜、千頭の牛の角に松明を灯した早雲の兵が小田原城へ迫り、勢子に扮して背後の箱根山に伏せていた兵たちが鬨の声を上げて火を放つ。数万の兵が攻め寄せてきたと、おびえた小田原城は大混乱になり、藤頼は命からがら逃げ出して、早雲は易々と小田原城を手に入れたという。
    <<
    http://ja.wikipedia.org/wiki/北条早雲#.E5.B0.8F.E7.94.B0.E5.8E.9F.E5.9F.8E.E5.A5.AA.E5.8F.96
  • id:ohimesama
    思いも掛けぬいるか賞、ありがとうございます。
    補足情報ですが、
    砥石城の城跡では、真っ黒に炭化した米粒が出土ました。
    これは後に真田幸隆(幸綱)の調略によって砥石城が落城したおり、
    備蓄米の蔵が焼き払われた名残、と、地元ではいわれております。
    これもあくまでも伝説ではありますけれども……。

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