私は、知性の働きを最重要のものと見なす立場が主知主義で、主意主義がそれに対立するものであるだと思ってました。そうすると主意主義は知性に対する反感から論理的思考を放棄する立場ということになるような気がしますが、腑に落ちない話が多いと思うのです。
右翼と左翼は歴史的にはそれぞれ主意主義と主知主義に当たるという説にも触れたことがあります。ネット右翼だとそれでも納得できるのですが、「右翼」「左翼」と「主意主義」「主知主義」の関連を前提にしたうえで、自分を右翼と規定するひとの中には恐ろしく知性的に見えるひともいます。言ってることが矛盾してると思ってしまいます。
あるいは、(たとえば科学の最先端で)人間の知恵が及ぶか及ばないかという問題があったとき、主意主義というのは思考停止を意味するのではないかという疑念もあります。目の前の問題を理性の限界の向こう側のものしてしまうと、それを解こうとすることが左翼的ということになってしまいます。
おそらく誤解していると思うのですが、本当の理解をご教示願えませんか。
個人的な意見ですのでもし意にそぐわなければ問答無用0ポイントで結構です。
まず、前提として「知性的に行動/思考すること」と「知性の働きに優位性を認めること」は異なると思います。
同様に、「感情的に行動/思考すること」と「感情の働きに優位性を認めること」は異なるでしょう。
更に加えると、「知性の働きに優位性を認めること」と「感情の働きを否認すること」、
「感情の働きに優位性を認めること」と「知性の働きを否認すること」も異なります。
あまり例え話は上手くないのですが、仮に体の弱いAさんが体格の良いBさんに理不尽な理由で殴られ、にも関わらず抵抗しなかったとします。
主知的に解釈すれば体力差で敵わないので抵抗しなかった、主意的に解釈すれば恐怖心から抵抗しなかったとなるでしょう。
しかし、体力差で敵わないと知性で判断したからといってそれが必ずしも抵抗を断念する絶対要素になるとは限りません。体力差を逆手に取る作戦もあるでしょうから。
この場合、体力差で敵わない(知性)→もっと殴られるかもしれないという恐怖心(感情)という思考の連鎖の結果として、抵抗を断念したと解釈するのが妥当でしょう。
同様に、恐怖心が必ずしも抵抗を断念する絶対要素になるとも限りません。窮鼠猫を噛むこともあるわけですし、強い感情は時に理性的な思考を損ないます。
この場合も、殴られた恐怖心(感情)→体力差を計算したことによる恐怖心の裏付け(理性)という思考の連鎖が成り立つと思います。
二つの思考パターンにおける違いは、先に知性か感情かのどちらがくるか、どちらが優位に作用するかです。
言い変えると、感情の根源が知性に起因するのか、知性の根源が感情に起因するのか、というのが主知主義と主意主義の争点だと、個人的に解釈しています。
難しいご質問だと思います。
素人なので、自分ではよく分からず調べてみました。
下記、ご参考になるかと思いますのでご覧になってみて下さい。
↓
http://kotobank.jp/word/%E4%B8%BB%E7%9F%A5%E4%B8%BB%E7%BE%A9
http://gc.sfc.keio.ac.jp/class/2005_14446/slides/04/6.html
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E4%B8%BB%E6%84%8F%E4%B8%BB%E7%BE%...
素早い回答ありがとうございます。
ただ残念なのは、まだ開いていないのにURLがすべて紫色で表示されていることです。
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=768
http://d.hatena.ne.jp/Barl-Karth/
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サイトを集めてみました。
参考になれればうれしいです。
深夜の回答ありがとうございます。
ただ、Googleではわからない話を教わりたいところです。
個人的な意見ですのでもし意にそぐわなければ問答無用0ポイントで結構です。
まず、前提として「知性的に行動/思考すること」と「知性の働きに優位性を認めること」は異なると思います。
同様に、「感情的に行動/思考すること」と「感情の働きに優位性を認めること」は異なるでしょう。
更に加えると、「知性の働きに優位性を認めること」と「感情の働きを否認すること」、
「感情の働きに優位性を認めること」と「知性の働きを否認すること」も異なります。
あまり例え話は上手くないのですが、仮に体の弱いAさんが体格の良いBさんに理不尽な理由で殴られ、にも関わらず抵抗しなかったとします。
主知的に解釈すれば体力差で敵わないので抵抗しなかった、主意的に解釈すれば恐怖心から抵抗しなかったとなるでしょう。
しかし、体力差で敵わないと知性で判断したからといってそれが必ずしも抵抗を断念する絶対要素になるとは限りません。体力差を逆手に取る作戦もあるでしょうから。
この場合、体力差で敵わない(知性)→もっと殴られるかもしれないという恐怖心(感情)という思考の連鎖の結果として、抵抗を断念したと解釈するのが妥当でしょう。
同様に、恐怖心が必ずしも抵抗を断念する絶対要素になるとも限りません。窮鼠猫を噛むこともあるわけですし、強い感情は時に理性的な思考を損ないます。
この場合も、殴られた恐怖心(感情)→体力差を計算したことによる恐怖心の裏付け(理性)という思考の連鎖が成り立つと思います。
二つの思考パターンにおける違いは、先に知性か感情かのどちらがくるか、どちらが優位に作用するかです。
言い変えると、感情の根源が知性に起因するのか、知性の根源が感情に起因するのか、というのが主知主義と主意主義の争点だと、個人的に解釈しています。
返事が遅くて申し訳ありません。回答ありがとうございます。
「個人的」とのお話ですが、深く考えておられるようで感服します。
最初の4行がやはり肝なんだろうなという気がしますね。
一方で悩ましいのが、「感情の根源が知性に起因するのか、知性の根源が感情に起因するのか、というのが」現実の問題を取り扱う上でどういう風に影響するのかというところです。「でかい奴に殴られた」というところで、主意的にも解釈しても主知的にも解釈しても抵抗しないと言うことであれば、あんまり争点にならないのではないかというところが気になっています。あるいはその解釈の差がどういう風に現実世界に影響するのかというところを今私も考え始めています。
ポイントはもちろん差し上げますのでお気になさらず。
返事が遅くて申し訳ありません。回答ありがとうございます。
「個人的」とのお話ですが、深く考えておられるようで感服します。
最初の4行がやはり肝なんだろうなという気がしますね。
一方で悩ましいのが、「感情の根源が知性に起因するのか、知性の根源が感情に起因するのか、というのが」現実の問題を取り扱う上でどういう風に影響するのかというところです。「でかい奴に殴られた」というところで、主意的にも解釈しても主知的にも解釈しても抵抗しないと言うことであれば、あんまり争点にならないのではないかというところが気になっています。あるいはその解釈の差がどういう風に現実世界に影響するのかというところを今私も考え始めています。
ポイントはもちろん差し上げますのでお気になさらず。