小谷野敦という人が、ブログで「近松門左衛門といえば全国どこでも知られていたとか、徳川時代の超有名人だと思うのは間違いである。近松が知られるようになったのは明治以後である」と書いてます。近松は同時代には大坂の町人しか知らなかったというのですが、これ、ホントですか?

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  • 終了:2009/09/25 13:50:03
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ベストアンサー

id:nicedayhiro No.2

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ポイント27pt

調べてみました。

「近松」という名前は1685年まで世に出ていません。大阪・道頓堀の竹本座で「出世景清」(かげきよ)が上演され、浄瑠璃作者として世間に認められた34歳のとき、初めてペンネーム「近松門左衛門」を名乗り、世間に知られたそうです。ひっかかるのは「世間」の範囲です。「ちょっと」の受け止め方が人によって違うように、今と昔では「世間」の捉え方が違うはずです。近松も「551の豚まん」だった可能性は非常に高いでしょうね。

http://homepage2.nifty.com/hay/nanori.html

id:maruseppu

調べていただいてありがとうございます。どの程度で「知られていた」とするかは微妙な問題ですね。

2009/09/18 22:05:14

その他の回答2件)

id:goog20090901 No.1

回答回数637ベストアンサー獲得回数17

ポイント27pt

嘘です。

http://q.hatena.ne.jp/answer

id:maruseppu

シンプルな回答ありがとうございます。できれば「嘘です」と証明できる根拠を知りたいのですが。

2009/09/18 14:20:26
id:nicedayhiro No.2

回答回数89ベストアンサー獲得回数6ここでベストアンサー

ポイント27pt

調べてみました。

「近松」という名前は1685年まで世に出ていません。大阪・道頓堀の竹本座で「出世景清」(かげきよ)が上演され、浄瑠璃作者として世間に認められた34歳のとき、初めてペンネーム「近松門左衛門」を名乗り、世間に知られたそうです。ひっかかるのは「世間」の範囲です。「ちょっと」の受け止め方が人によって違うように、今と昔では「世間」の捉え方が違うはずです。近松も「551の豚まん」だった可能性は非常に高いでしょうね。

http://homepage2.nifty.com/hay/nanori.html

id:maruseppu

調べていただいてありがとうございます。どの程度で「知られていた」とするかは微妙な問題ですね。

2009/09/18 22:05:14
id:archi-holic No.3

回答回数80ベストアンサー獲得回数11

ポイント26pt

近松は当時の慣習をやぶって、作者名をきちんと出していたので、

都市部のひとたちや、芸能通には知られていたと思いますけど。

http://www.joy.hi-ho.ne.jp/aisurukai/kokosaka1.2-.htm

↑これの「坂田藤十郎(9)」あたりを読むと知名度のニュアンスわかるでしょうか?

ただ江戸時代って、農民が8割の時代なので、全国どこでも知られていたとは言えないです。

滑稽本みたいに広く流通する本を出していないし。

小谷野さんのブログ見てましたが、文脈上はまあまあ正しいこと言ってると思いますよ。

id:maruseppu

ご丁寧にありがとうございます。これだと、明治以前は知られていなかったというような書き方は言い過ぎのような気もしますが、ニュアンスの差でしょうか。

2009/09/18 22:08:28
  • id:yokikotokiku
    とっくに締め切っているのでここに書いてみます。

    まず、回答にある「近松が当時の慣習をやぶって作者名を出した(から名前を知られていた)」という点について、
    近松は江戸初期、元禄前後の作者ですからこの「当時」というのは江戸初期を指します。以降の作者は浄瑠璃でも歌舞伎でも、みんな名前を出します。有名な人気作者もたくさんいました。
    「名前を出したのは近松が最初」というのは確かですが、芝居や浄瑠璃(文楽の台本)の作者としては、この点では近松の条件は特別ではありません。

    江戸時代においては近松は、例えば芭蕉と同時代人にあたりますが、すでに江戸後期には「旅先で芭蕉ゆかりの旧跡を見物する」といったことが行われていました。江戸時代の作者や作品を、「ひとつの時代のもの」としてひっくくって考える事に、まず無理があります。
    江戸後期の人間にとっては、近松は充分に「古典」です。
    そして、現代の日本人が「江戸時代は○○だった」と語るとき、殆どの場合、資料の多いこの江戸後期→末期の状況を言っているのです。

    さて、まず上方と江戸での近松の知名度の差について書きます。
    近松は、歌舞伎の脚本も書きましたが、これも坂田藤十郎という上方の名優がいてこその作品群で、派手好みの江戸の歌舞伎には向きませんでした。言葉も違いますし。
    基本的に近松が書いたのは人形浄瑠璃の作品ですが、江戸は人形芝居は全然盛んではありませんでした。
    というわけで、そもそも江戸文化圏では近松作品は「流行らなかった」のです。
    また、近松の繊細でリアル(ときに黒い)な作風は、人気役者がかっこいい役を演じるのが基本スタンスの歌舞伎には、これは上方も含めて、あまり合いませんでした。
    歌舞伎のジャンル分けについて書いたのがあるので貼っておきます。
    http://blog.goo.ne.jp/yokikotokiku/e/1e37f6a4e888710c984f2bf682d42422
    なので、歌舞伎に移入された近松作品の殆どが、後代の作者によって歌舞伎向けに改作されものなのです。当然タイトルも変わり、クレジットされる作者名も変わります。「重の井子別れ」などが典型です(もとネタは「丹後与作小夜小室節」)
    http://blog.goo.ne.jp/yokikotokiku/e/1b6dc8d492c6914565a2575a890d524f

    しかし、上方では常に文楽は歌舞伎と並んで人気がありましたから、近松作品もしょっちゅうかかりました。当然知名度も高かったでしょう。
    そういう意味で「上方以外では近松はあまり有名ではなかった」というのは正しいと思います。

    近松が知名度の低いローカル作家だったということではなく、
    江戸中、後期の流行には合わなかった。また、作品は知られていても作者名を知らないヒトが多かった、
    ということだと思います。

    また、回答にもありますように近松は刊行本を出していませんので、大活字文化圏であった当時の日本社会において、たとえば同時代の文人「井原西鶴」などと比べても名前を覚えてもらうという点ではかなり不利だったと思います。

    とはいえ、お稽古事として浄瑠璃を習えば、絶対に近松の作品に当たるでしょうから、
    京阪江戸だけでなく、地方都市や、農村部でも子供に習い事をさせる余裕のあるような家であれば、近松の名前と作品くらいは知っていたでしょう。

    「明治以降近松が有名になった」というのは、
    明治以降の歌舞伎界で近松を見直す動きが出、原作に忠実に、新しい脚本と演出で近松作品を上演することが盛んに行われたからです。
    明治以前と以降の歌舞伎の変遷については、このへんが参考にしていただけるかと思います。
    http://blog.goo.ne.jp/yokikotokiku/e/92b4d4b0eb0df5f93fcd5535a17b0021

    これも、なので、明治以前の日本は近松を理解できるレベルになく、明治以降の教育でやっと近松がメジャーになった、
    という意味ではありません。

    江戸文化の全盛期において、近松は「古典」だったということをご理解いただくと、雰囲気が伝わりやすいかと思います。

    長くて申し訳ありません…。

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