今日岩手沿岸から国道107号線を通って内陸まで買い物に出かけたんですが「よくこんなところに道路が作れたなぁ」と感心しました。

この国道がいつごろどういった経緯で作られたのか知りたいのです。
昔は盛街道と呼ばれてたらしいのですが。。。

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  • 終了:2009/08/26 21:15:18
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id:MEI-ZA-YU No.3

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ポイント26pt

http://www.tohoku-epco.co.jp/shiro/09_01/07kaidou/index.html

 この道の歴史は古代まで遡る。坂上田村麻呂が蝦夷を制圧するために胆沢城を築城した際、

役人や兵士たちの食料を沿岸から大量に運び込んだルートだったのではないかとされている。


http://www.nnet.ne.jp/~tatuyosi/kesen/ziten/rekisinomiti1.html#a...

3.盛街道

 この街道は、内陸部から海岸に出る脇街道の往還路である。

奥州道中を水沢市佐倉河で分岐し、北上川を渡り、

岩谷堂人首の両宿場を経由し、種山の物見山を越え、

箕輪山を経て気仙郡に人り、世田米宿から白石峠を越えて盛宿へと通じる。

この道筋を盛街道と呼んでいる。

その途中では、気仙街道、遠野道、江刺街道などの呼称も使われていた。


約千百年前、胆沢城を築き、陸奥国を征討した頃に切り開かれ、塩や海産物を運んで、政府軍の兵士を養った。

物資運搬の道は細く長い難路であり、官道として江戸時代まで統いた。

また、岩谷堂から分岐し、伊手町宿から峠を越え大股を経由し小股で合流するルートがある。

この道を江刺往還と呼んでいた。


旧仙台領古絵図、慶長ー元和年中の絵図、大股菊池家蔵の正保元年(l644)種山周辺等の絵図にも

江刺往還と記入されている。

両ルートとも内陸地方より米を、海岸地方より塩、海産物を輸送する生活上重要な交通路であったと思われる。


明治30年、大改修を行ない車馬の通行を可能にした。

白石随道はこの時小友村の戸羽組(土木工事請負業認可第1号)によって完遂された。


http://www.pref.akita.jp/fpd/senbokudo/senbokudo.htm

大正時代、北上-横手間の平和街道(国道107号)が開通

その他の回答2件)

id:afurokun No.1

回答回数4647ベストアンサー獲得回数99

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岩手県で、最も古いトンネルとして記録されているのが、これから紹介する白石峠にあった、白石隧道である。

過去形で記さねばならぬのは辛いが、現実に、今はもう、存在しない。

この隧道が掘られたのは、記録によれば明治18年。

この時代にはまだ、東北地方に自動車など殆ど存在せず、鉄道といえば唯一釜石にあったのみ。

国道県道といったような道路行政もまだ未成熟で、江戸時代から続く「街道」の名が人々に行き渡っていた。

この、県内最古の隧道が掘られたのは、盛街道。

いまの大船渡市と水沢市とを繋ぐ北上山地横断の道の途中、白石峠という場所だった。

現在も、この峠には国道が通い、三陸中部の主要な交通路となっている。

かつて、平泉黄金文化を支えた鉱山ヤマのみちであると同時に、沿岸と内陸の文化交流のみちでもあった盛街道に、今は無き隧道の痕跡を求める。

http://yamaiga.com/road/siroisi/main.html

id:lancer13 No.2

回答回数2934ベストアンサー獲得回数68

ポイント27pt

かつては盛街道と呼ばれ、水沢から大船渡に抜ける脇街道の往還路だった。水沢から北上川を渡り、岩谷堂、人首の宿場を経由し、種山の物見山を越えて箕輪山を経て気仙郡に入り、世田米宿から白石峠を越えて盛宿へと通じる。

 千数百年前に胆沢城が築かれ、陸奥国が朝廷により征討された頃に切り開かれ、塩や海産物を運んで政府軍の兵士を養った道でもある。

http://www.pacs.co.jp/pacs/hist_walk/walk_iwate04/sumita_kabasak...

id:MEI-ZA-YU No.3

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http://www.tohoku-epco.co.jp/shiro/09_01/07kaidou/index.html

 この道の歴史は古代まで遡る。坂上田村麻呂が蝦夷を制圧するために胆沢城を築城した際、

役人や兵士たちの食料を沿岸から大量に運び込んだルートだったのではないかとされている。


http://www.nnet.ne.jp/~tatuyosi/kesen/ziten/rekisinomiti1.html#a...

3.盛街道

 この街道は、内陸部から海岸に出る脇街道の往還路である。

奥州道中を水沢市佐倉河で分岐し、北上川を渡り、

岩谷堂人首の両宿場を経由し、種山の物見山を越え、

箕輪山を経て気仙郡に人り、世田米宿から白石峠を越えて盛宿へと通じる。

この道筋を盛街道と呼んでいる。

その途中では、気仙街道、遠野道、江刺街道などの呼称も使われていた。


約千百年前、胆沢城を築き、陸奥国を征討した頃に切り開かれ、塩や海産物を運んで、政府軍の兵士を養った。

物資運搬の道は細く長い難路であり、官道として江戸時代まで統いた。

また、岩谷堂から分岐し、伊手町宿から峠を越え大股を経由し小股で合流するルートがある。

この道を江刺往還と呼んでいた。


旧仙台領古絵図、慶長ー元和年中の絵図、大股菊池家蔵の正保元年(l644)種山周辺等の絵図にも

江刺往還と記入されている。

両ルートとも内陸地方より米を、海岸地方より塩、海産物を輸送する生活上重要な交通路であったと思われる。


明治30年、大改修を行ない車馬の通行を可能にした。

白石随道はこの時小友村の戸羽組(土木工事請負業認可第1号)によって完遂された。


http://www.pref.akita.jp/fpd/senbokudo/senbokudo.htm

大正時代、北上-横手間の平和街道(国道107号)が開通

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