もっとも適切な解答をくださった方に1500ポイントさしあげます。

「心という独自の存在を認めない唯物論的な立場にはどのような難点があるか。以下のカッコ内に挙げる言葉すべてを正しく用いながら論じてください。言葉を使用する順序は問いません。(デカルト、機能主義、普遍的知識、クオリア)」
論述の筋がとおっていること。引用したところは引用元を書くこと(ネットの場合URL+日付)。自分の立場とその根拠が書かれていること。最低800字程度は書くこと。
よろしくお願いします。

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ベストアンサー

id:batti55 No.2

回答回数904ベストアンサー獲得回数27

ポイント1500pt

脳科学の発達と共に、デカルト以来のアポリアであった心身二元論を克服し、心的な現象を脳のはたらきで説明・記述しようとする唯物論的な思想が勃興してきた。

心を脳の状態との対応関係とする、または心脳因果を脳が原因として描き出す手法は、全ての心的状態を脳の状態に還元しようとするものである。が、この方法では個別の「この痛み」に対応する脳状態は確認できるが、「痛み一般」に対応するする脳状態は多様であるとの批判が浮上した。

皮肉にもデカルトの提唱した普遍的知識が足枷となって、個別の状態の記述は可能だが、それを普遍にまで拡張できないという難点が露呈したのである。

これに対抗したのが、チューリングにインスパイアされ、人間の脳を機械と同一視する機能主義である。この「科学的」な方法は脳に対するインプットとアウトプットのみを問題にし「脳の内実」を不問にしたまま人間行動を説明しようと試みるものである。

もちろん、機能主義に対しても批判は存在する。まず、脳の感じ取る「質(クオリア)」という問題を宙に浮かせたままというのがそれである。人間の感覚質(以降はクオリア)は、クオリアを全く考慮しない。換言するなら人間の脳というハードウェアを、全く蚊帳の外に置いた機能主義においては、人間のクオリアは十全に説明されえない。

また、人間の欲求や信念はその人の行動や言動に基づいて、合理的に緩やかに理解されるものである。これに厳密に対応した脳状態を発見するのはほぼ不可能である。人間の具体的な言動は、他の心的なものとも結びついて複雑に振舞うからである。

言い換えれえば、心的なありさまを、脳状態から「唯物論、決定論的に」見出だすのは、同じ精密さと「柔軟性」を持ち合わせた脳を「創り出す」ことでしか成就しえない。これは、結局はもうひとつの人間の脳を要請しているのであって、創り出すのは極めて困難な作業であろうし、仮に成就しえたとしても心脳関係の謎をクリアしているとはいえない。

以上の点からも心を脳に帰着させる方法には、幾多の難点があるものと思われる。

http://web.kanazawa-u.ac.jp/~philos/phenomenologie.htm

http://www.kcg.ac.jp/acm/a5024.html

id:kazzzzzu

回答ありがとうございました。

とても読みやすく(理解しやすく)、うまく整理されていていい文章だとおもいます。僕の考えていた解答例に近いですね。文中に?なとこもありますが、指定された言葉もすべてうまく取り入れていてよかったです。

ポイントの方は今後の他の回答も思慮させていただいたのち、決めさせていただきます。

ありがとうございました。

2007/07/08 17:44:09

その他の回答4件)

id:adlib No.1

回答回数3164ベストアンサー獲得回数243

ポイント50pt

 

 1.普遍的知識としてのクオリア

 

 わたしは、この質問で、初めて“クオリア”という用語を知ったが、

そんなことも知らない回答者が、質問者を満足させる可能性は低い。

 質問者は、愚かな回答者をあつめて、睥睨したいのだろうか。

 

 先に定住した者は、あとから登場する者の存在を認めたがらない。

 したがって、唯物論が“心の存在”を認める以前に、たぶん“心”が

唯物論の存在を認めないはずである。

 

 たとえば、メロンが甘いかどうかは、その名から予測できない。

 過去に食べた果実が、メロンと呼ばれることを知らない場合もある。

 そこで、メロンを見ただけの者が、食べた者に教えることができる。

 

 2.機能主義とは何か

 

 メロンを食べた者が、見ただけの者に教える手法は、限られている。

 よく似た果実の名をあげ、共有した経験を選びながら、その組合せに

よって、固有の機能を連想させようと試みるのである。

 

 刺激をうけた“心”の変化を再現することで、疑似体験を生みだす。

 後から来た探検家は、はじめは先住者の意見に耳を傾けるが、結局は

信じない。やはり自分の知ってるものしか存在しないと考えるからだ。

 

 哲学も、言語以前の先住者であり、言語によって形成された概念は、

探検家にすぎないのである。

 ゆえに哲学は、図書館や研究室には存在しない。

 

 3.デカルトの周辺

 

 デカルトを論じる者は、いまだ読んでいない者を探しもとめている。

 デカルトを語る者は、最後に、つぎのように〆めくくることができる。

「デカルトは、ぼくの出発点だったが、もはや過去のものだ」

 

 デカルトを読んだ者は、読まない者を指さしたがる。

 デカルトと会った者が、読んだ者に教える内容も、きわめて貧しい。

「デカルトは、あぁ見えても気さくで、お人よしなんだ」

 

 デカルトの亡き母は、こうつぶやいたかもしれない。

「お前が存在するかどうかは、わたしが先に知っていたのよ」

 デカルトは、死後の哲学の発展に、あくびしているにちがいない。

 

 4.心の在処

 

 約百年前まで、心は心臓にあると信じられていた。

http://d.hatena.ne.jp/adlib/19151028

 外科の夜明け ~ エリザベスの心臓 ~

 

 現在では、心は、脳内記憶として存在すると考えられている。

 ただし、論理的な存在であって、物理的な実在ではない。

 あたかも数学における“零”のように、約束されたルールとして。

 

 たぶん心は、喜怒哀楽を収納するための、文学的容器にすぎない。

 もとのままの喜怒哀楽は、学習された利害勘定だったのだ。

 多少の出し入れは可能だが、一度ぶちまけると、元に戻せない。

 

 5.余論 ~ もうひとつの心 ~

 

 「心の存在を認めない唯物論の難点」は、つぎのように云える。

 ゼロの存在を認めない元号計算から脱することができない。

 元年の前年を“ゼロ年”としなければ、通算できないのである。

 

 近代の西暦計算は、つぎのとおり。

 紀元前一年から紀元一年までが1年間、前二年から後一年まで2年間。

 紀元前一年を“0年”とすれば、いかようにも演算できる。

 

 この考えは、工芸用語として“心々・真々・芯々(Center to center)”

の呼び名で存在し、二点の中心を割りだす技法でもある。

 このような概念は、おそらく“heart”よりも古いのではないか。

 

 ◇

 

http://q.hatena.ne.jp/1150739562

 ほんとうは“朝三暮四”で、何を伝えようとしたのでしょうか。

 

id:kazzzzzu

回答ありがとうございます。愚かな回答者をあつめて、睥睨したいなどということでは全くありません。

>先に定住した者は、あとから登場する者の存在を認めたがらない。

これを“心”と“唯物論”の関係に使うとは着眼点が僕とは違い勉強になりました。

僕からみると全体的に考え方がなかなか奇抜で、おっしゃっている意味を理解できたか不安な部分もありましたが楽しませてもらいました。欲を言えばカッコ内の言葉を含めたひとつの文章として論じてもらいたかったです。

ありがとうございました。

2007/07/08 17:20:39
id:batti55 No.2

回答回数904ベストアンサー獲得回数27ここでベストアンサー

ポイント1500pt

脳科学の発達と共に、デカルト以来のアポリアであった心身二元論を克服し、心的な現象を脳のはたらきで説明・記述しようとする唯物論的な思想が勃興してきた。

心を脳の状態との対応関係とする、または心脳因果を脳が原因として描き出す手法は、全ての心的状態を脳の状態に還元しようとするものである。が、この方法では個別の「この痛み」に対応する脳状態は確認できるが、「痛み一般」に対応するする脳状態は多様であるとの批判が浮上した。

皮肉にもデカルトの提唱した普遍的知識が足枷となって、個別の状態の記述は可能だが、それを普遍にまで拡張できないという難点が露呈したのである。

これに対抗したのが、チューリングにインスパイアされ、人間の脳を機械と同一視する機能主義である。この「科学的」な方法は脳に対するインプットとアウトプットのみを問題にし「脳の内実」を不問にしたまま人間行動を説明しようと試みるものである。

もちろん、機能主義に対しても批判は存在する。まず、脳の感じ取る「質(クオリア)」という問題を宙に浮かせたままというのがそれである。人間の感覚質(以降はクオリア)は、クオリアを全く考慮しない。換言するなら人間の脳というハードウェアを、全く蚊帳の外に置いた機能主義においては、人間のクオリアは十全に説明されえない。

また、人間の欲求や信念はその人の行動や言動に基づいて、合理的に緩やかに理解されるものである。これに厳密に対応した脳状態を発見するのはほぼ不可能である。人間の具体的な言動は、他の心的なものとも結びついて複雑に振舞うからである。

言い換えれえば、心的なありさまを、脳状態から「唯物論、決定論的に」見出だすのは、同じ精密さと「柔軟性」を持ち合わせた脳を「創り出す」ことでしか成就しえない。これは、結局はもうひとつの人間の脳を要請しているのであって、創り出すのは極めて困難な作業であろうし、仮に成就しえたとしても心脳関係の謎をクリアしているとはいえない。

以上の点からも心を脳に帰着させる方法には、幾多の難点があるものと思われる。

http://web.kanazawa-u.ac.jp/~philos/phenomenologie.htm

http://www.kcg.ac.jp/acm/a5024.html

id:kazzzzzu

回答ありがとうございました。

とても読みやすく(理解しやすく)、うまく整理されていていい文章だとおもいます。僕の考えていた解答例に近いですね。文中に?なとこもありますが、指定された言葉もすべてうまく取り入れていてよかったです。

ポイントの方は今後の他の回答も思慮させていただいたのち、決めさせていただきます。

ありがとうございました。

2007/07/08 17:44:09
id:nyanyanyaojisan No.3

回答回数63ベストアンサー獲得回数3

ポイント50pt

心MINDとは、過去・現在・未来にわたって自分が継続的で同じ存在であり、自分の行動を自分でコントロールしようという意識と定義できます。そういう意識の働きが無かった場合今日の人間そして人間社会は今のような形で存在できたでしょうか。自分が一貫して同じ存在だと思わないところではエントロピーは増大してよほどの偶然でなければ今日の人間社会で見られるような秩序はありえない。宇宙の歴史から見ればほんの一瞬に過ぎない短時間で今日の人類に進化できたのは心の存在を前提としなければ説明が困難であると思います。進化論を直接証明することは難しいですが、進化論だけが今日の生命の多様性や化石等に残された生命の歴史を合理的に説明することができます。

管見の限りではこの分野でもっとも示唆に富むのはR.ペンローズ「皇帝の新しい心」(EMPEROR'S NEW MIND)です。同書はデカルトの普遍的知識、心の存在は確実だという思弁を越えて、果たして機械は心を持ちうるのかという問題を思考実験しています。裸の王様(EMPEROR'S NEW CLOTHES)が服を着ていないように、機械は心を持ち得ない。同時に彼はチューリングの機能主義も克服しています。「中国語の部屋」即ち中国語を知らなくても自動翻訳機を持って部屋に入れば、外部から見れば中にれっきとした中国語通訳が入っているのと同じだという仮説も、違いを見抜くのは難しくない。「自分以外は全部ロボット」という仮説の反証を見つけるのは実際問題として容易。

所謂クオリアや複雑系のような仮説の仮説をわざわざ持ち出さなくても人間の「心」は地球での生命誕生後、進化上の副産物が進化を加速化させたブレークスルーとして考えることができる。直接存在証明は難しいけれどもモノからは独立した心という独自の存在を前提とするといろんなことが説明できるという、間接的な存在証明。その意味で心も進化論や量子物理学と似ている言って良いかも知れません。

http://www.amazon.com/Emperors-New-Mind-Concerning-Computers/dp/...

id:kazzzzzu

回答ありがとうございます。

進化論がでてきたのは僕としては意外でおもしろかったです。

「中国語の部屋」は機能主義の反例としてよくでてくるものですね。僕としては部屋の中身がどうであれ正しく中国語のやり取りができている時点で中国語を理解していると判断して良い気もするのですが(知能の基準となっている人間の場合でさえ脳の仕組みがよくわかっておらずそれ自体が中国語の部屋のようなものなのだから。)

nyanyanyaojisan さんはなぜ「中国語の部屋」の違いを見抜くのは難しくないとお考えなのでしょうか?「自分以外は全部ロボット」という仮説の反証はどのようにしてできるのでしょうか?そこらへんをもうすこし詳しくお聞きしたかったですね。

僕自身は理系のものなので、回答を読ませていただいた限りnyanyanyaojisan さんのほうが素養がありそうですね。勉強になりました。

ありがとうございました。

2007/07/08 18:14:14
id:teruya No.4

回答回数6ベストアンサー獲得回数0

ポイント50pt

  もうちょっと整理して

  「心を定義して」

  「心の利点をあげよ」

  ですね。

  人間は60兆細胞の集まり

  その膨大なネットワークといえる

  脳が司令塔

  でも火傷とか痛みとか肌が知覚したら

  脳を通さずに反応することは可能

  危険に対して脳サーバーとの指令やりとりしてたら遅すぎ

  コンマ1秒でも速く処理しないといけないので

  単純刺激に対する反応はできる

  脳も5感に対する反応でしかない

  とすると人間の60兆細胞全てが

  考える脳細胞だとしても大枠で間違ってない

  さておき

  心という臓器はない

  心と限定される脳細胞も存在しない

  しかし人は心と呼ぶにふさわしい言動がある

  言動を細かく分解していくと単純な反応の集まりにすぎない

  できごとに対して反射神経で応えるそれだ

  これが心を認めない唯物論

  全ては反射で説明できる

  できるのだが、、、できない

  心というのは「膨大」な反射処理だから

  メタ情報を一瞬で判断してるのが心

  これをいちいち言葉で分解して解析する時間を与えない

  例えば絵画を見て感動したとしよう

  この感動を唯物論的に解釈するのは無理だ

  縦20059ドットから、横8999ドット目の、#388ff8カラーがいいよね

  とはならない

  3000万画素をいちいちひとつひとつ評価したりはしない

  誰が書いたかという情報もある

  いつ書いたか

  何を思って書いたか

  書いた人の生い立ち

  自分の過去

  自分の未来

  絵を見た場所

  共感する人

  他人の評価

  光の当たり方

  絵の時間経過

  絵のタイトル

  画材

  スタイル

  額縁

  その他もろもろの情報を一瞬で

  「この絵は素晴らしい」と「心」が判断する

  60兆の細胞ネットワーク全部が働いてる生きてる状態で

  それを「観る」わけだ

  人を好きになるとか

  言葉を交わすのも心がきちんと働いてる

  心を唯物論で否定するというのは

  人が本来もってる動物的「感」を失うこと

  理論で1ドットずつ判断するのはとても正確で間違いはないが

  絵をひとつ観るのに80年ぐらいかかる

  木を見て森を見ず

  もちろん80年目に全て絵を見終えても感動はない

  心を否定してる人は感動しない

  理屈でばかり物を考えて

  「女性は子を産む機械」とか平気で言う

  日本のダメなところ

  会社のダメなところ

  妻や夫や恋人のダメなところも理屈でたくさんのべる

  全体が見えないから感謝もできない

  悪いドットを見つけて挙げていくのに

  平気で200年ぐらいかけようとしてる

  マクロでは決して間違ってないのだが人生として間違ってる

  井の中のなんとか

  人が言葉にできない「なんとなく好き」という心の感情は

  分解するべきものではない

  えてしてそれは正しい

  「心」を「亡」くすで「忘れる」

  全体で「感」じる

  感謝を忘れた人が、人としてうまく生きていけなくなるのは

  この意味でむしろ唯物論的に正しい


「心という独自の存在を認めない唯物論的な立場にはどのような難点があるか」

という心を扱った問題に対してお客様(教授?)の指定される

(デカルト、機能主義、普遍的知識、クオリア、800文字以内)

は、むしろ結果を出すための障壁と判断したため単純化させてもらいました。

ルールを破ったのでポイントはいりません。

楽しい問題をありがとうございました^^

ダミーURL

http://finalf12.blog82.fc2.com/

id:kazzzzzu

回答ありがとうございます。楽しく拝見させていただきました。

心について論じる場合「感動する」ということはとても重要な内容ですよね。これなしに心は語れないのかもしれません。

たしかに質問の前提とは違う回答ですが、それとは関係なく今までの回答にはすべて、気休め程度にしかならないかもしれませんがポイントをつけさせていただきます。

ありがとうございました。

2007/07/08 18:28:16
id:kaerusanu No.5

回答回数1ベストアンサー獲得回数0

ポイント50pt

質問に沿った形ではありませんが、回答して見たいと思います。


まずは、唯物論と心を認める認識について。

こちらは2つとも共に認識であるという事、認識というのは一般的な科学知識では脳内ネットワーク上の接続=クオリアによって構成されています。そして、認識は物理的世界から、情報を捨象した集合となっています。


唯物論に科学的な不一致は、特に認められていないと思います。逆に言えば唯物論で全て(と言っても物理現象をですが)説明可能だと思います。なぜ、正しいと解っていることを固定した視点として常識として導入しないのでしょうか?


それは、全てのことを理解するのにコストが膨大になってしまうためです。唯物論で心と同じレベルの認識をするとどうなるでしょうか。逆にこの問題が解決できるならば、唯物論のみで他の認識はいらない事になります。


ちょっと試して見ましょう。自分の個人的な問題ですが、量子力学が最近はどうなっているのかを知らないのでその上の原子から、考えて見ましょう。


原子が多数組み合わさる事で分子となります。その原子が組み合わさる法則が存在します。個人的にはすでに必要原子量が人間一人で10^28個近く必要ですので、脳内シミュレート不可能となります。さて脳内メモリーを全く無視して続けて見ましょう。


それをすべて頭の中に入れてシミュレートしたとしましょう。脳内の原子数を超える原子数を管理できるかはなはだ疑問ではありますが。その理解法則が正しいものであってシミュレートが誤差がないものであれば、それは人間そのものを理解したと言えると思います。そしてそれはその人「そのもの」を頭の中で動かせる事となります。そのものを理解するためには情報を棄ててはいけないためです。全てを理解するという事は、そのようなやり方以外に存在しません。


実際には人間の脳は、こんなにメモリーが多くないですし、存在構成要素を超えた情報を保持できるのかかなり疑問があります。


なぜ心という認識が必要なのか。これは心が在るor無いの話ではありません。そんなものは解釈=認識でしかないため、その考える人の認識=前提条件次第で答えは変わってしまうためです。つまり答え=心という認識は、認識できる存在の数だけ在るということなのですが。人間社会はそれを言語によって共有する事で、常識、その他認識=普遍的知識として人間社会上の文化として保存しています。


「心が存在するという認識があるという利点の説明」をするために「全ての認識が存在する理由」を説明しましょう。まず、認識とは情報の捨象、抽象であるということです。なぜそのような事をするのかというと、明白な利点が存在するためです。それはこの複雑な世界を単純化することで、あらゆることを単純に処理できるようにする事です。全ての網膜の色素情報が意識上に上ってきたら、おそらく何も理解できません。人は物理世界を視ている振りをして、認識世界を視ています。ある種の麻薬を使えば、認識世界外の世界も見れるようですがそれに意味など存在しません。


人間は理解をし、認識をすることで物事を単純化して理解する事ができます。心という仕組み自体は、感情フィードバック制御システムというべきかなり優れた構造ですが、万能ではないという事です。これが人間で在る以上の制約であり、逆に利点でもあります。


心というのは、人の内部のフィードバックを捨象、抽象し単純化した認識です。唯物論から心を語るには、情報量が多すぎて非常に困難であるために、心という認識が便利であるという結論を導くことができます。人間が認識世界を生きている以上、一つの人の内部フィードバックをまがいなりにも可視化できるのは、非常に便利な認識だと思います。


ダミーURL

http://d.hatena.ne.jp/kaerusanu/

  • id:Sampo
    1500ptではちょっと少なすぎるような。
    レポート作成代行に頼めば、最低5000円はかかります。
  • id:odorukuma
    小論、ここで依頼する手もあるんですね。
    未だに課題文を読んでも、論点すら分からない文章があります(苦笑)
  • id:odorukuma
    カオス論を使って論じるのでしょうか。
    寄せられる回答が楽しみです。
  • id:imo758
    そもそも出題に潜む暗黙の前提に私は納得いかない予感がする。
  • id:batti55
    人間の感覚質(以降はクオリア)は、クオリアを全く考慮しない。

    機能主義はクオリアを全く考慮しない。

    ですね。まあ、全体にお目汚しの内容で申し訳ない。
  • id:ma-kanoh
    >心という独自の存在を認めない唯物論的な立場にはどのような難点があるか。

    「難点」はない、というのが結論です。

    「デカルト、機能主義、普遍的知識、クオリア」どれも無駄な単語に過ぎない。

    #終わっちゃったよ。

    私の立場としては、「心」という「独自」の存在ではなく、「心」を「従属」的な存在として認めるのであれば、どれも矛盾なく存在できるという立場です。

    「独立」か「従属」かは、「デカルト、機能主義、普遍的知識、クオリア」とは、何の関係もありません。

    デカルト: 「人間」という「もの」が居ると思っている
    機能主義: 「機能」が「もの」として存在する前提である
    普遍的知識: 「ひと」がいないでも「もの」があることになってる
    クオリア: なんとなく「もの」が「ある」とおもえる。

    「もの」を前提としてるという点では一緒です。「唯物論的」とは無関係な概念に過ぎない。なせなら「唯物論的」は「もの」は前提としないから。「もの」しかないのだから「もの」を前提としない。「もの」がないとすれば、そもそも「唯物論的」ではない。

    #この意味の「もの」は、「もの」の概念すべてを含む。

    ということで「難点」はなく、単に平行線です。

    脳の配線さえ分かれば、その「唯物論」という概念は
    なくなると期待してます。「心」と「唯物論」の対立は、そもそも
    存在しない。

    #あと膨らませば800文字行くのだろうか。
  • id:teruya
    自分の回答を拡大解釈すると

    「ネットワークそのものに心は存在する」

    とか
    万物に心が宿る

    「八百万の神」

    とかも物理的な真理だよね。
    神様だから凄いとかじゃないんだけど
    見方によったら神様なみに凄いw
  • id:shoushi
    豚平さん、ごくろうさまです。

     ま、要するに唯物論的観点だとどうしても機能主義になっちゃうけど、それだと1つの入力でいろんな答えを出す脳みその「ゆらぎ」ってやつをどう説明すんの?ってことでしょ?
     蝶々や兎は関係ないかな。

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