当時(1941~45年頃)の高等女学校において、1クラスは何名で、1学年は何クラス、学校全体では何名程度だったのでしょうか(地方や時代により4年制や5年制だったりしたらしいので、その辺まで分かると嬉しいです)。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/hpbz198102_2_187.html
を見ると、例えば昭和20年には全国の高等女学校の学校数が1272校、生徒数が875814人なので、平均すると1校あたり688人になります。
しかし当時を知る身内(群馬県出身)に訊くと、1学年に約60人・1クラスしかなかったとのこと。
当然ながら地方と都会では違うと思いますので、それぞれもう少し具体的な数を知りたいです。
URL必須にしていますが、身内・知人からの証言でも構いません。よろしくお願いします。
まず、高等女学校令によれば、
第九条 高等女学校ノ修業年限ハ四箇年トス但シ土地ノ情況ニ依リ一箇年ヲ伸縮スルコトヲ得
高等女学校ニ於テハ二箇年以内ノ補習科ヲ置クコトヲ得
とあり、4年が標準であることがわかります。
また、高等女学校編制及設備規則によれば、
第一条 一学校ノ生徒数ハ四百人以下トス但特別ノ事情アルトキハ六百人マテ増員スルコトヲ得
第二条 一学級ノ生徒数ハ三十五人以下トス但特別ノ事情アルトキハ五十人マテ増員スルコトヲ得
とあり、1学年400人以下、1学級35人以下が原則であることがわかります。
実際の数は、例えば鹿児島県立高等女学校(現鶴丸高校)の場合、昭和3年以降修業年限5年(専攻科は3年)、定員720名(専攻科120名含む)となっています。
横浜第二高等女学校(現横浜立野高校)の場合、昭和11年開校時は「100人が松・竹の二組に分かれて学習を始めました。」とあります。
鹿児島の例では、
17 4 ・ 旧県立保健婦養成所開設され,20年7月20日(戦災により焼失)まで併置せらる。
・ 戦時学徒動員により,4・5年生並びに専攻科生徒は鹿屋に動員せらる。.
20 3 ・ 戦時中につき,4年は卒業を繰り上げられ,4・5年同時に卒業す。.
4 ・ 情勢逼迫し,学校工場を薩摩郡入来町に疎開す。
6 ・ 17日戦災により講堂,洋和作法教室及び教室及び図書室の一部を焼失す。
8 ・ 6日戦災により1階北側全部焼失す。15日終戦により生徒全員動員解除。
9 ・ 県庁焼失のため22年4月まで本校教室一部使用。
とありますし、
横浜第一高等女学校(現横浜平沼高校)でも、
1945(昭和20)年 横浜大空襲で本館以外は焼失。
残存校舎は救護病院に当てられる
とありますので、戦時中は、校舎が確保できず、1クラスの人数は多めになっていたのではないでしょうか。
高女の修学年限については
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%A5%B3%E5%AD%A...
1943年に4年制に変わっています。
編成については、法律等が以下の通り規定しています。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpbz198102/index.html
その辺のページは読みましたが、どうも分かりづらいというのと、
当時女学生だった身内の「5年などなく、ずっと4年制だった」という証言もあり、絶対的なものではなかったのではと思い質問した次第です。
Wikipediaの記述も、1943年の4年制への変更前は「修業年限については5年を基本とするよう改められた」ということで、あくまでも「基本」でしかなかったのではと。
ともあれ、ありがとうございました。
まず、高等女学校令によれば、
第九条 高等女学校ノ修業年限ハ四箇年トス但シ土地ノ情況ニ依リ一箇年ヲ伸縮スルコトヲ得
高等女学校ニ於テハ二箇年以内ノ補習科ヲ置クコトヲ得
とあり、4年が標準であることがわかります。
また、高等女学校編制及設備規則によれば、
第一条 一学校ノ生徒数ハ四百人以下トス但特別ノ事情アルトキハ六百人マテ増員スルコトヲ得
第二条 一学級ノ生徒数ハ三十五人以下トス但特別ノ事情アルトキハ五十人マテ増員スルコトヲ得
とあり、1学年400人以下、1学級35人以下が原則であることがわかります。
実際の数は、例えば鹿児島県立高等女学校(現鶴丸高校)の場合、昭和3年以降修業年限5年(専攻科は3年)、定員720名(専攻科120名含む)となっています。
横浜第二高等女学校(現横浜立野高校)の場合、昭和11年開校時は「100人が松・竹の二組に分かれて学習を始めました。」とあります。
鹿児島の例では、
17 4 ・ 旧県立保健婦養成所開設され,20年7月20日(戦災により焼失)まで併置せらる。
・ 戦時学徒動員により,4・5年生並びに専攻科生徒は鹿屋に動員せらる。.
20 3 ・ 戦時中につき,4年は卒業を繰り上げられ,4・5年同時に卒業す。.
4 ・ 情勢逼迫し,学校工場を薩摩郡入来町に疎開す。
6 ・ 17日戦災により講堂,洋和作法教室及び教室及び図書室の一部を焼失す。
8 ・ 6日戦災により1階北側全部焼失す。15日終戦により生徒全員動員解除。
9 ・ 県庁焼失のため22年4月まで本校教室一部使用。
とありますし、
横浜第一高等女学校(現横浜平沼高校)でも、
1945(昭和20)年 横浜大空襲で本館以外は焼失。
残存校舎は救護病院に当てられる
とありますので、戦時中は、校舎が確保できず、1クラスの人数は多めになっていたのではないでしょうか。
なるほど。かなり具体的になってきました。
細かいことですが「1学年400人以下」ではなく「1学校400人以下」ですね。でも出されたのが明治32年ですし、
第十四条 既設高等女学校ニシテ第一条ノ規定ニ依リ難キ事情アルトキハ明治三十二年三月三十一日マテニ其事由ヲ具シテ文部大臣ノ指揮ヲ受クヘシ
ともあるので、上限の伸縮は多少あったかもしれません。
もちろん戦時中というのは考慮する必要がありますね。戦争末期になると動員があって授業どころではなかったらしいのですが。
おかげである程度まで分かりました。ありがとうございました。
http://www.edu.pref.kagoshima.jp/sh/Tsurumaru/enkaku_1jyo.html
http://www.kochinet.ed.jp/maruno-h/syoukai/enkaku.html
こんなのはいかがでしょう?
5年制は実施されているが、すぐに戦争になり4・5年が同時卒業などの記述があります。
上のページは既出ですね。
下のページは学級や定員数の記述があり参考になります。ありがとうございました。
なるほど。かなり具体的になってきました。
細かいことですが「1学年400人以下」ではなく「1学校400人以下」ですね。でも出されたのが明治32年ですし、
ともあるので、上限の伸縮は多少あったかもしれません。
もちろん戦時中というのは考慮する必要がありますね。戦争末期になると動員があって授業どころではなかったらしいのですが。
おかげである程度まで分かりました。ありがとうございました。