あんなものは要らない。
人間は便利なものに弱い。
便利なものほど いいものだと思って 本当にいいものを捨ててしまう。
黒澤明の「夢」という映画に、こういうセリフがありますが、
「本当にいいもの」って例えば何が挙げられますか?
http://www.pref.niigata.jp/furusato/report/20060905_h_vol1.html
いいかえれば不便さが良いということになりますか。
豊かな人間性を先に言われたので、ではモノの面から例を挙げます。
たとえば、カキ氷機にしても、今家庭用品売り場で売ってるのは不恰好なコードがついていて、モーターがついていて、指をつっこみにくい(=洗いにくい)形の氷入れがあって、モーターには停止機能がついている。ガガガとプラスチックを共鳴させながらうるさく稼動し、プラスチックの劣化によりどこかが折れたらたちまち不恰好な不燃ごみになる。
昔のカキ氷機は、刃とハンドルとねじがあるだけですが、分解して刃の出方を微調整することによって粗めも細かめもつくりわけられ、氷と一緒に屋外ピクニックにもっていけば、電源が何もなくてもカキ氷が食べられる。木製であれば本体をつくりなおすこともできる。
つまりうたい文句としての「便利」は実際は「安物買いの銭失い」と同義語の場合があります。
生活の多様性のほうに追従できるよう、身の回りの単純性を保ち、人の能力で対応するほうが暮らしの質が高い場合もあるということですね。
実際、家の中が「便利」になりすぎて家の外へ出なくなるのは心身を不健康する原因かもしれません。ジョ-バ1台買って、電気代と最後に粗大ゴミとして処分するまでのお金で、乗馬クラブに結構な回数通えるのに?と思います。
あぁ!! なるほど。
カキ氷の例は分かりやすいですね。
ありがとうございます。
>「本当にいいもの」って例えば何が挙げられますか?
とても興味深い質問です。本当にいいものは・・・
・昼寝している猫のおなか
・夜に見上げる星空
・冬の凛とした空気
などなど。多分、【自分の感覚にふと何かをうったえるもの】です。これは文明の機器からはあまり受けることのない感覚なんですね。ほっとするというか、何かやすらかな気持ちにさせてくれるもののことでしょうか。
でも、わたしは便利なものもいいと思いますよ。
ただ、それに囚われすぎて昔の自分にとって大切だったものを見失うことはとても寂しく罪深いことではありますが。
http://www.google.co.jp/(ダミーURLです)
「便利なものほど いいものだと思って 本当にいいものを捨ててしまう。」
から考えるとすれば、本当にいいもの=便利ではないもの≈手間暇のかかっているもの。
手間暇のかかっている、工程の多い、その分愛情と敬意を込めて作られたもの。
サービスの価値を、スピードでなく、過程で計る場合に優れたもの。
機械化されておらず、人の手で作られた素朴で、均一化されていないもの。
量産化されておらず、代えのきかないもの。
ということで、母親、もしくは恋人、または職人の作った
おいしい晩ご飯。
あと、宛名もコメントも手書きの年賀状。
ありがとうございます。
今後、解答される方は、理由を添えてください。
お願いします。
? この質問はあなたにとって「本当にいいもの」とは何ですかという質問だと思っていたのですが……「夢」という映画の中の登場人物が思う「本当にいいもの」でしたらすみません。ただ私にとっては「便利なもの」、言い換えればそれを望む「人間の欲」こそが「本当にいいもの」と思えるためこう発言させていただきました。まぁ、正確に言うと「本当に良く、本当に悪いもの」という認識ですが。
不便なのにすごくいい物。たとえば楽器がそれにあたります。
楽器というのはたいてい、相当に練習をしないと、まともな演奏など出来ません。つまり道具としては、ものすごく不便で、使いにくい構造になっているんです。
たとえばヴァイオリンには、フレットがありません。勘で押さえる位置を決めて、音程を確保しなければなりません。
しかしこの「使いにくい構造」には理由があります。フレットがないことで、1オクターブを単純に12等分して音を決めていく「平均律」だけでなく、周波数比がキッチリ 6:7 や 4:7 などになる、極めて美しい響きの「純正律」にも対応できるようになるわけです。
http://www.musicon.co.jp/sennritukei.htm
また、固定されたフレットが弦の振動長を決めるのではなく、指が直接弦を押さえて振動長を決めていきますから、微妙な指の動きがそのまま音として表現できるということ。これが、使いにくいゆえに得られる構造上の特質です。
不便だからこそ、本当にいい物が得られる。ヴァイオリンに限らず、楽器はその代表だと思います。
「感動」・・・というか、心の動く幅の大きさ、ですかね。
不便な方が感動は得やすいと思います。
たとえば、山の上から景色を見る場合、自分の足で登ったあとに見るのと、車で上って見る景色では、目から入ってくる物理的情報は同じですが、感じ方は全く違います。このはっきりとした違いは、経験した者にしかわからないかも知れません。
電気の例にしても、電気のない世界では、雨の日は昼でも部屋は暗いままで不便です。しかし、その分晴れた日には、「今日は晴れて良かった」と感じる程度が今よりも大きいはずです。
こんな感じで、普段がとても不便な分、その不便さが軽減されたときの感動は大きいことから小さいことまで、いたるところに表れてくるのだと思います。
便利が当たり前だと、不便になったときの苛立ちが大きくなるだけで、よっぽどでないと便利なことに感激しませんもんね。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B00005OKW6
↑上の映画は、火がついただけで大喜びしています。
http://q.hatena.ne.jp/answer【おもいやりの心】
うまくいえませんけど便利と引き換えに「ホントにいいもの」=「思いやりの心」が減っているという感じがします。
物への思いやり。人への思いやり。
例えば
保存料や合成調味料はとっても便利です。
しかしそれらを使用することでものの味が失われてしまいます。
その素材を本当に大切にしているなら入れたくないはず。
同じく、自分の家族には入れたくないはず。
大根一本買っても、痛まないように大根への思いやり。
食べる人への思いやり。
自然への思いやり。
電化製品にしてもそのものを本当に大切にしてもらおうと思ったら
壊れないものを作るでしょうし、大切に使うでしょうし、高くとも修理するでしょう。
工場も便利になり、機械が作ってると思うから捨ててしまえるわけで、職人技で作ったものだったらなかなか捨てられないかも知れません。
電気も便利に使えるようになって、面倒だからついつい、で、電気の消し忘れも。
電気を使うと、電気を作るときに出た廃棄物が45億年残って周辺に放射能などの害を残します。
ついつい、車に乗ったり、ついつい、プラスティック製品を使い捨てにしたり。そういう石油製品は地球の砂漠化をすすめます。
ま、いっか。の便利に向かう気持ちが、自然を破壊したりする影響を与えているような気がします。
地球を含め色んなものへの思いやりは、軽い「ま、いっか。便利だから」で無残にもすてられてしまうような気がします。
便利によって捨ててしまったいいものの中には
【やさしい心】【正しい心】【真実を見る心】や【おもいやり】もあるのじゃないかとおもいます。
http://q.hatena.ne.jp/hanatomi/
アドレスはダミーです。
技術と思います。
なければないで,工夫して問題を解決する技術。
他人から見ればその技術は,本当にいいものと思います。
ここには電気は引いてないんですか?
あんなものは要らない。
人間は便利なものに弱い。
便利なものほど いいものだと思って 本当にいいものを捨ててしまう。
黒澤明の「夢」という映画に、こういうセリフがありますが、
「本当にいいもの」って例えば何が挙げられますか?
ありますよね、そういうの。
代表されるのが食べ物です。
僕は味噌は市販のものは好きじゃないんです。
実家で作っている味噌が本当においしい。何故ならば大豆も自家栽培しているから。その大豆で味噌・豆腐を作るから。
機械を使って味噌を作るより、地域の人に応援を頼んで、大豆に麹を混ぜ合わせたものがおいしい。機械で大豆を擂り潰すよりも必死こいて石臼で挽いた大豆を使った豆腐の方が、市販のものより倍近くおいしい。
食べ物の話ばかりでごめんなさい。この時間になるとおなかが空いちゃてて。
あとは「洗練」ということですね。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C0%F6%CE%FD&kind=...
人間の営みが長きにわたるうちに、
いろいろな無駄がそぎ落とされて、
ものの本質だけが過不足なく残る、
それを「洗練」といいますね。
(天才が一人居れば「洗練」を多少早めたり
広めたりすることは出来ても、
その天才も社会の中に生きている以上そんなに突出できません。
レオナルドダヴィンチは多方面にいろいろ突出させられた
非常に珍しい例です。)
例えば、食器などは非常に洗練が進んで、分化しています
(宇宙人からみたら陶器のお茶碗も漆器の汁椀も
同じものに見えるでしょうが、内容物によって
すべてを自然に使いわけしますし、必要があってです)。
ナイフも工具としても食器にしても目的に応じて
何千種類もあります(バターナイフ、魚用ナイフからアーミーナイフ、ひごの守まで)
ペンも櫛もファッションも・・
北欧の椅子などがやたら高級なのも、
座り方などといった使い方まで含めて形にするからです。
今は技術の進歩が早すぎ、また欲張りすぎて
洗練になかなか到達しません
(「便利になった」をうたう発明は絶えずくりかえされていますが、
黒沢監督の思う洗練には足りていません。
単に宣伝力が足りず陳腐になったから
捨てられるのととりちがえられそうですが、
本当によく考えられ洗練されたものなら、
発明の効力が切れたあとまでも
最後には陳腐にならず残ります。
cf.原付におけるカブなど)。
まだ無駄が多すぎる。
電気・電子分野はエジソンから始まったばかりの技で、
まだうまく洗練されていないのです。
白物家電でさえまだ箒や布巾や洗濯板にようやく並んだくらいでしょう・・・
http://blog.hanamarl.com/item-451.html
「動く(働く)こと」だと思います。体だけの事じゃなく、頭や、気持ちを動かす、働かせる事が「本当にいいもの」じゃないかと。
便利になる事でもっとも失われるのは、人が動く事。車で移動する事によって、歩かなくなり、運動不足を補う為に、別に運動する時間が必要になる。じゃ、最初から歩けよ!ってのが今の現状ですよね。
考える事も含めて動く事こそ「生きる」証だとすれば、便利な物を使って動く量を減らす事はもしかしたら、生きる事を否定していっているのではないかと…。
(URLは同じ内容を書いた私のブログの記事です)
すいません、解答になっていませんが……。
今後は、よく質問を読んでから解答して下さい。