死刑は何がいけないのかを出来るだけ沢山書いてください
死刑で楽にしてしまうのには反対。
死んでも何も償えない
あわせて、終身刑にも反対。
終身ではなくなるので。
理想は、外国のように禁錮ン百年や、
1畳ほどのスペース&窓無しに閉じ込めて、他の人間と会うことも、会話することも、本を読んだり、テレビを見たりすることも禁止し、ただ、真っ暗な部屋で出される最低限の食事を食べるのみ。
刑務所に入っている間そういう生活を送ってもらいたい。
これも良いですね
現行憲法でも出来そうですし
これ以後死刑は軽すぎるという人の回答は控えていただきたい
如何しても書きたいならかいても良いですが...
まず、ちょうど今話題にのぼっている「命をもって償わせる」という問題です。この考え方が定着してしまうと、「自爆テロ」は既に犯行時点で償いが完了しており免罪される、ということになりかねません。罪はあくまで命ある心と体とで償っていくという考え方が重視されるべきです。
http://jpn.cec.eu.int/union/showpage_jp_union.death_penalty.php
続いて、国家が人を殺すという前近代性です。これは日本人の国民感情がどうの、日本流の治安の守り方がこうのという問題ではなく、国際的潮流とのバランスの問題です。
既にEUは2002年5月、全加盟国が戦時中を含む全ての状況における死刑の完全廃止を規定する「欧州人権条約第13議定書」の署名国となり、さらに全世界から死刑が廃絶されることを求め続けています。
EUの主張は、
といった理のあるもので、これを根拠に、死刑を最も残酷、非人道的な行為と規定しています。
この国際的潮流に理解を示さない国民性は、後進的であるとのそしりを免れないでしょう。すなわち、死刑制度の存続は、日本という国家の発展をも妨げるということです。
本当に国際的な潮流ですか?
私にはそうは見えませんが...
そもそもEUで死刑復活の声が沢山上がっていますが...(死刑廃止の時もそうでしたが)
死ぬことを望む人も居るわけで、そういう人が死刑になってもよいから犯罪を起こすことが考えられるからです。
死ぬことよりも、生きて苦しむ何かを与えない限り、犯罪はおきてしまうと思うのです
生き地獄を味わうと思えば、自ら死ぬことを志願して犯罪を起こそうとする人を少し食い止められるような気がします
死にたくない人と死にたい人
どちらが多いかが問題ですね
・「人の命は尊いから、殺人をしてはいけない」
・「人を殺すことは罪が深いから国が犯人の命を奪う」
この2つは矛盾すると思います。
本当に命が尊いのなら、殺人者であっても誰も殺すことはできないと私は考えています。
死刑は廃止し、最高刑を釈放なしの終身刑にし、懲役、又は禁固をするべきだと思います。
世の中には自分が死刑になることを目的にして他人を殺す者がいます。このような場合に死刑を行うことは本人の望みを叶えることになります。
また、殺人者を死刑にしても被害者が生き返るわけではありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E5%88%91%E3%81%AE%E5%BB%8...
命が尊いから罰するのではなく法律で決まっているから罰するのです
AがBに殺されたとき、CがBを捕えてDに引渡す。
DがBを裁いて、Eに処刑を命じる。
最後の執行は数人(非公開)で行われる。
噂を聞きつけたMが、Bの家族などから状況を確認する。
SやTがAの遺族に伝え、U~Zに報道する。
多くは事件から十数年たって、忘れられたころに終結する。
いまの処刑方法が、このままでよいとする理由は見あたらない。
いくら議論しても、互いの言い分に耳を傾けないのはいけない。
わたしは反対論者ではなく、賛成論者でもない。
(↓=最近の関連回答です)
http://q.hatena.ne.jp/1158491128#a607885
そうですね
犯罪が無くなるまで常に改善の余地は残されているということでしょうから
★日本国憲法違反である。(残虐刑の禁止)
★冤罪被告人を誤って処刑する可能性を否定できない。
コワモテ亀井静香氏が意外にも死刑廃止論者なのですが、その理由は
「国家も間違いを起こすから」
警察官僚出身の亀井氏が一番それを判っている。
それでは国家は犯罪者を罰すべきでないとお考えですか?
私は死刑反対論者というわけではないのですし、そもそもこの話題はとてもここでやり切れる話題ではないとは思うのですが、さしあたり今思いついたことだけ、ちょっと簡単に短時間で、ご回答させて頂きます。以下が「いけないところ」ではないでしょうか。
実際に、人を死刑にするという行為、これは、どういう行為であるのか、という点ですね。ここがポイントなのだと思います。
あまりにも言うまでもなく当然のことであり、反論の余地も無いことですが、まず、日本には年商40兆円の企業がありまして、この企業は法律によって未来永劫に年商40兆円を保証されています。40兆円年商保障の会社ですので、日頃から、汚職も多いし、内実はボロボロで、商品品質も、経営水準も、常に、低品質を前提として、巨大な組織を安定運営しています。
まず、この企業の中の、担当部署の人間が、一般民衆から自由に選択して、一般民衆のうちの1人か数人に目を付けます。次に、この担当者が、武力(銃を持った担当者)により、武力(暴力)によって、自由に選択した一般民衆を自由に捕縛して、その娘や妻や親の目の前で、武力によってとその会社のビルに拉致してきます。
次に、その隣の部の担当者(裁判官)が、その人間は、かくかくしかじかの悪いことをした人間だ、と決定します。その担当者は、東京大学出で、東大パソコン部にいて、就職活動をして、この40兆円企業に就職させてもらって、その3年後に結婚しました。その40兆円企業の担当者は、自由にセレクトして拉致してきた人間を殺すことを決めた日も、朝は娘の結婚について心配しながら、焼いたパンにジャムを塗って、ミルクを入れたコーヒーを飲んで、妻の血糖値についての心配の発言を聞いて、新聞を読んで、「今日は寒いなあ、、、カシミアのセーターでも買おうかな」と思いながら、ぬくぬくと、出勤してきました。毎日そんな調子で、会社の部屋の中で暮らしているだけなわけです。
拉致されて捕縛された人間の2年前の1日の出来事とは、遠い者でしかありません。40兆円企業の社員です。気楽な「愚衆」の1人です。そういうことを決めることによって収入を得て生活していて、夜は性行為をし、旨い物も食い、暖かい布団で寝ているだけの人間でしかないのですね。金もほしいし、名誉も欲しい訳です。
この40兆円企業の担当者が、一般世間から自由にセレクトして、武力で強制拉致してきて、そして、殺害しようと決めましたね。
なんと言っても年商40兆円企業ですから、資産もあります。ですので、人間を、事実上世間からノーチェックで、現に殺害するための設備も保有しているわけです。
ということで、担当者(凡人)は、豊富な設備投資力によって、建築会社に発注して作らせた、その、人間を殺害するための建築物に、その自由に拉致してきて、自由に殺害しようと決定した人間を、強制的に移動せしめ、遂には、ごく簡単に殺害していまいます。
ちょっと時間が無いので、簡単に終わらせますが、、、、
ようするに、上述のようなことが、人間社会の現実というものであり、このために、自由主義と言って、法文が社会の支配者であり、決して個人ではないとし、また、デュープロセスだとか、訴状一本主義だとか、などなどなどなど、いろんなことをやっているのが現状な訳です。結論を言えば、上述のような現実を視野に十分入れなければ、そもそも法律というものを作ってはいけないわけであって、現に、現行憲法以下の法律のは、そのような立場によって書かれているものであり、それは歴史の教訓を多く内包しているわけです。
しかし、死刑についても、冤罪の件なども過去あります。その他多くの問題点もあります。
と言いますのは、要するに、オウム真理教の事件で死刑判決が出たから、或いは、光市母子殺害事件の真犯人が明確であるから、だから死刑は是であるのだ、というような考えをするのであれば、それは稚拙でしかないということであり、それに対する反論は存在しません。裁判というもの自体、単なる公務員の「おっさん」が人を断罪し(陪審をつけても同じようなもの)、現に、死刑ともなれば、実際にはよく分からないままに、公務員の「おっさん」が、現に、人を殺害する殺人許可を貰っていることになるわけですね。
裁判というものが完全無欠なものであり、警察力が完全無欠なものであるなどは、そもそも前提に全く無いのです。また、民衆の総意が完全無欠であるなども暴論に過ぎません。しかし、現実には、そういうような中で、親や祖父母やその友人達に祝福されて、未来の夢として、この世に生まれてきた人間を、単に、殺人許可証によって殺害してしまう、ということです。法律などというものもいい加減なものでしかありません。全体を考えればとても怖い話なのですね。
ですので、その点を重々分別しなければ、単に、死刑を是であるか、非であるのか、を語ることすらも、不可能なわけですが、さしあたり、上述の点が、死刑のいけないところの一部であると思います。
そもそも法律に正当性を求めるのがおかしい
社会での決まりごとであって正しい事を羅列しているのが法律ではありません
たとえば人を殺すのが趣味な人がいても、その人には趣味を我慢していただいて多数の安全を取りましょうということでは無いでしょうか
その安全を守るために「おっさんに」殺人許可証を与えてるのです
2回目回答失礼します。
http://amor1029.exblog.jp/1754953
>日本の死刑はこのように執行される(刑務官は語った・・)
>踏み板を落下させるスイッチは5つボタン式になっていて、刑壇の右奥の壁に設置されている。・・・5つボタンになっているのは、少しでも執行官の精神的な罪悪感と自虐心をなくすためだという。
>処刑ボタンは保安課長が右手を上げた時が用意で、その手を振り下ろした時に全員でボタンを押すのだそうだ。
死刑を執行する人の罪悪感を軽減させるために5つのボタンを同時に押して、誰が直接の操作を行ったかをわからないようにさせているそうです。
本当に死刑をすることが正しいのであるなら、このような方法で行う必要はないのではありませんか?
例えば法務大臣が行ってもいいでしょう。
スイッチ1つ押すだけの作業は書類にサインをするよりも簡単です。
この事実は人が人を殺してはいけないことを示していると私は思います。
正しいかどうかは誰が決めるのでしょうか
そもそも法律に正しいかどうかはさほど重要では無いように思います
上の解答でも書きましたが正しい事の羅列ではないと言うことです
多数のために少数が我慢すると言う事は起こりうることです
理想論です。
死刑に反対な理由は、どのような形であれ人を殺すことを社会的にみとめてほしくないからです。
「罪をおかしたものなら殺していい」
~なら殺していいという考えが世間一般に根付いている状態では、そこから用意に悪いほうへと変わってしまうように思います。
~なら殺していい。罪を予防するためなら殺していい。戦争の相手なら殺していい。神を冒涜するものは殺していい。利益を侵害するものは殺していい。生きるために殺していい。自国を攻撃されないためにさきに相手を殺していい。
「~なら」の程度は大きな力があれば簡単に変えることができます。その大きな力に流されて、「そうか、~なら殺していいのか」と流されてしまわないように、「殺す」という行為に少しの正当性も持たせず、絶対悪であるようにしてほしいであう。
人を殺すことが絶対悪としてもいいですがそれで社会が守れるでしょうか...
出来れば死刑に換わる代案を書いていただきたい
スイマセン忘れてました
これから書く人は死刑に換わる代案も書いてください