私は詐欺の方は正しくないと思います。
ドラマなどでは許せますが、やっぱり現実に詐欺師をまた騙すといったことは、悪いことをしている詐欺師と何の変わりもありません。同罪だと思います。
ですが、悪い人を殺す事に関しては、刑務所では死刑宣告もあるので、一般社会で認められていると思います。
なので、社会的に通用するので、悪人を殺すことは正しいと思います。
http://yahoo.comダミーです。
「クロサギ」は詐欺行為そのものが、間違ってると思います。
「デスノート」現在の裁判でも極刑はありえるので、何らかの
ルール上でなら問題は無いと思いますが、個人的な発想と感情で
裁判官と死刑執行人を兼ねるのは、ただの独裁者になり下がる
だけなので、間違っていると思います。
いわゆる現行法で裁けないは多いように感じます。また、死刑の次は無期懲役で、これは事実上、数十年で社会復帰の機会を与えてしまいます。ゆえに「必殺仕事人」のような、私的に悪を罰する組織、行動に憧れる気持ちはよくわかります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%85%E6%AE%BA%E4%BB%95%E4%BA%8...
正しいのではないかと思います
ストーリー的には実に面白いですが現実的に考えると低年齢層にこういう悪いことはいけないと言うことをしみこませているので害はないと思います
でも逆にそれを通して悪いことをしてしまう人もいるのではないかとも取れますが
間違っていると思います。
なぜかというと、行為の対象者(詐欺師・悪い人)よりも、その行為自体(殺す・詐欺)に抵抗を覚えるからです。
クロサギは未読ですが、デスノートでは月は恣意的に行動しているように思いました。
法的権利もないのに罰するということって、結局突き詰めればワガママなんではないかと思います。
自分が直接被ったことならまだ理解できますが…
(法的権利と、ワガママがなぜいけないかという点についてはこれ以上言及しません。)
デスノート自体は面白かったですけどね。
(ミサはどうなったんだろう…)
URLはダミーです。
デスノートに関しては私自身は、悪だとは思いません。しかし、主人公の考えには賛同します。彼は何の見返りも求めず、罰を下すものも選びに選んでいました。やはり、世の中には害を及ぼす人間がいます。それらに罰を下すことは悪いことではないと思います。
まず、「クロサギ」や「DEATH NOTE」は架空のお話ですが、ここではそのような創作ではなく、現実としてあのようなことが行われた場合について考えることにします※1
つまり、「悪いことをした人に対して、法律などの取り決めに従う形でなく罰を与える」ということの是非を問う問題になります。
私は、このようなことはあってはならないと考えます。それは、このような「一部の人の勝手で人に罰を与える」ということがまかり通った場合、民主主義や法治主義に深刻な打撃を与えてしまうからです。
人間は神ではないので、「ある人の行いが、本当に悪いことかどうか」を完璧に間違えずに判断することは、まずできません※2。そして、「悪いことをした人に、どれだけの罰を与えるべきか」についても、確実に正しい答えが出せるとは限りません。現代の法治主義の社会では、(まあ色々と問題点はありますが大まかには)人々が話し合ってお互い納得できるような決まりを「法律」としてつくり、それに従って、人が悪いことをしたかどうか調べたり、それにふさわしい罰を決めたりします※3
さて、このような社会の中で、その「話し合って作った決まり」に従わないで、勝手に悪人に罰を与えるヒーローがいたらどうなるでしょう。もしかしたらその「悪人」は、「皆で話し合って『悪いこと』だと決まったこと」はしていなかったかもしれません(その人が悪人だとヒーローが思い込んでいただけかも)また、例えば死神のノートで40秒後に息の根を止められるとして、それはその人が行ってきた「悪」に対しては重すぎる罰かもしれません。皆で話し合って決めていない以上、その罰は自分勝手に下されたものである可能性を否定できません。
このようにして、もし「自分が話し合って納得していない理由で『悪』だとされ、罰を受ける」ということがまかり通るようなら、誰も安心して社会で暮らしていくことはできないでしょう。ですから、現実の社会において「自分勝手に罰を下す」ということは、あってはならないと私は考えます。架空のお話の中だけにしておいてほしいものです。
※1……死神のノートなんてどこにもないじゃ~んとか言わないでください(泣)
※2……ある国で英雄と謳われている人が、隣の国では殺人者扱いをされている、ということはどこにでもあることです。見方を変えれば善悪の評価は変わるのであって、「完全に正しい見方」を簡単に決めることは出来ませんよね。
※3……これを「罪刑法定主義」といいますよね。
URLは法治主義の解説です。
私は「間違っている」と考えます。
基本的に処罰の目的は社会秩序の維持と法益の保護にあり、
これを個人の判断で実行することは社会秩序を乱し、
法益に反する結果をもたらすと考えるからです。
なるほど、法の裁かぬ悪を裁く。
こうした行為は、フィクション的にはかっこいいでしょう。
しかしフィクションの場合の罰を下す目的は、
それによって読者の「溜飲を下げさせる」ことにあります。
つまり、そこでの罰の目的は、「報復」あるいは「見せしめ」にある、
ということです。
しかし、現実世界での刑事罰の目的は、まず犯罪者の反省を促し、
更正と社会復帰を期していくところにあります。
ここにおいて「報復」「見せしめ」といった目的は
副次的なものでしかありません。
もし現実世界で「報復」「見せしめ」を目的に懲罰を加えようとすると、
それはアフガン戦争に代表されるような「強者の論理」による
一方的な殺戮にもなりかねません。
イラク戦争もそうでした。しかもイラク戦争の場合は、
その「強者の論理」を支えていた大量破壊兵器なるものの存在が
今日ほぼ否定されているのですから最悪です。
結局、「報復」「見せしめ」目的の私刑の実行は、
社会秩序と法益を一方的に破壊する
正義に対する敵対行為と考えざるを得ないでしょう。
このことはネット社会に蔓延している
「悪は徹底的に叩いて良し」とする「祭り」などにも言えてきます。
悪に対して悪で対抗することは所詮悪であり、
単にそれは快楽を求める行為以外の何物でもないと言うこと。
そこに正義感を持ち込めば、それこそが偽善であると言うこと。
モラルを考えず、本音で答えれば、
正しいとおもいます。
目には目を。死には死をもって償う。
結局これが一番シンプルで、被害者の心が一番救われるような気がします。
自分の行っていることがすべて正しいという考え方は、間違っていると思います。
これはまさに原理主義で、もしみんながこのような考えだったら人間は最後には独りになってしまって、誰もいなくなってしまいます。
現実問題として、イスラム原理主義の一部の過激派たちは本人たちは正しいと思っていて、他の人は間違っていると思っていても、二つの間には交渉の余地がまったくなくなってしまい、対立しか生みません。
ですからこの漫画のことを考えることは、とても意味のあることだと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A...
http://www.jca.apc.org/~sei-u/hitotsubo_kanto/Kokaishinri/ikensy...
クリーンハンドの原則の趣旨から言えば、違法行為自体は違法行為であり、法の保護は受けられず違法と言う判断になる。
要は一見正しいような錯覚に陥るが、詐欺行為をするということ自体は違法であり、当該行為により得た財産上の利得を、騙し取られたものに返却するための行為であれば、当該行為により実質財産上の利得を得ていないこととなり、違法性阻却事由と判断される。
間違っていると思います。
盗まれた人が取り返してくれと言ってその人に頼み、そういう目的ならまだ許せますが、正義を気取りただ詐欺をするだけなら、遠まわしに最初に騙された人の金をとっただけで何らかわりはないからです。
デスノートも殺人という行為が法で罰せられるのであり対象は関係ないことから悪人を殺しても結局は殺した人が悪人にすりかわるだけだと思います。そういうことをやるならば自らは悪であることを認める必要があると思います。正義など絶対語ってはならないと思います。http://q.hatena.ne.jp/answer
間違っているかどうかでは、私は間違ってはいないと思います
なぜ間違っていないのか、と聞かれると答えられないのですが
法律論風に考えた場合、クロサギは立派なサギではありますが
漫画の中では立証できないものばかりのようなので
詐欺罪にはならないようなきがします。
また、デスノートもノートに名前を書くと人が死ぬということは
呪術的な行為で呪術により呪い殺すという行為は
通常、刑事裁判では科学的に死亡と呪いの
因果関係を立証できないので無罪となります
(というよりも最近の裁判では脅迫以外では起訴すらされない気がする)http://www.youngsunday.com/rensai/comics/kurosagi.html
難しいところですが、命というのは本当に儚く、大切なもので、だからこそ、人間が人間の手で、人間を殺すというのは私は反対です。
しかしこれは建前。
自分がその立場に会えば、憎しみが、憎しみを生むこともあるのでしょう
間違ってるんじゃないかな。
ポイントは、クロサギもデスノも簡単にいえば罰則を下せる能力(力)を有してる人になるけど、能力の行使を決定する本人を抑止する力が存在していないから。
罰の執行を行使する人間をコントロールできないのは社会として致命的。それこそ執行者自身が『悪』となったときに、それに罰を下すのは誰か、という問題かと。
悪に罰を下す力を有するものには制約を科さなければいずれ自分たちにその刃が悪の意思によって振り下ろされないとは限らない。
超越的な正義の味方は間違っています。
間違っていると思います。
上の yuubokuさん、TomCatさんとほぼ同じになってしまうのですが、一票投じるということで書き込ませていただきます。
現実の世界では、やはり法に従うべきです。それが悪法だったとしても。
近代社会の市民として生きるための常識だと思います。
そうでなければ、私たちは不条理の世界に生きることになり、
諸外国からも「法治国家ではない」「近代国家ではない」と見なされるでしょう。
現在の私たちだけではなく、将来の人たちの生活にも影響を与える問題です。
(私は法律について詳しくないのでちょっと雑な書き方かもしれません)
…… ちょっと優等生すぎる考えかもしれませんが、私はこれが正論だと思います。
「現実の世界ではどうだったか」という点について、面白くも象徴的な事例があります。
Wikipedia: 大津事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B...
「フィクション」としてなら全然構わないと思います。
「クロサギ」も「デスノート」もまだ見ていませんが、気にはなっていて、
見たら多分私も「面白い!」と思うだろうなー、と思っています。
今の世の中の法律、しかも日本の法律は考え方がとても古いのです。
だからといって今の世の中に適応した法律を作った場合でも人殺し・人騙しはやってはいけないことです。
ただ、同情できる部分があるとすればクロサギのような行為も夜神月のような行為も致し方ない部分があると言えます。
ただ、クロサギは過去に何があろうとも人を騙すことをするのはいけないと思います。
ただ、夜神月の場合は反省することのない犯罪者の成敗なのでよいかと思います。ただし、過去の過ちを償おうと努力する方は殺してはいけないでしょう。
これが私の思っていることです。
詐欺や殺人は、理由の如何を問わず、リアル社会では立派な犯罪です。クロサギやデスノートは、ドラマや漫画などのフィクションの世界でのみ許されているものです。デスノートは私も読んでいました。
報復としては、「目には目を、歯には歯を」という、ハンムラビ法典の言葉が知られていますが、これは誤解されているようです。
客観的な見方をすれば私は正しいと思います。
悪人に「悪い事をすると罰が与えられる」ということを植えつける事で犯罪率が減少する事は善人からすればとても良い事なのではないかと考えてしまうからです。
ただそれはあくまでも罰を与える事が出来る存在が神であればという事が前提です。
私は人が人を裁く事には無理があると思っています。
人が善悪を決めるという事は出来ないのではないでしょうか。
今裁判等で人が決めている事は善悪を決める事ではなく、犯罪を犯してしまった人間を善か悪のどちらかに区切る事だと思います。
人間が神と同等な存在になる事は不可能なので「間違っている」というのが私の答えです。
どちらも正しいと思います。ですがどちらもありとは思えません。
悪いことをしたら罰を受けるべきだとは思いますが、じゃあ誰が罰の程度を決め、そして罰を与えるのか?さらに、本当にその人は悪いことをしたのかどうかを判別する方法は?
これは回答は出ないと思うのですが、ただもし本当に悪いことをした人が罰を必ず受けるということなら正しいことだと思います。
ただ、それを行うのが人間である以上冤罪の可能性が出てくるわけで、それを黒崎やライトが行うのは無しですね。
両者とも完全に間違った思想です。
まず、デス・ノートから話しを始めます。まっとうな裁判を行っても冤罪で死刑になってしまった事件は多いんです。手許に資料が無いので、事件名はすぐには解りませんが、開拓時代の米国では裁判の前にリンチで死んでしまった方がたくさんいます。
2点目は犯罪者に弁解の場を与えていない。殺人事件でも殺される側に理由のある場合があります。お金を持っているからとか、短いスカートを穿いていたとかというのもありますが、加害者に対して同情が集まる例も多くあります。有名なところで刑法から尊属殺人の規定を廃止するきっかけとなった、実娘の父親殺人があります。この例だと実の父親に性の玩具として扱われてきた娘がやっと掴んだ幸せすら父親に壊されかけたのがきっかけです。
で、黒詐欺の方ですがこれも許されるものではありません。立派な詐欺罪が成立します。
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まず、詐欺の犯罪者だからといって、何をしても構わないということではありません。
2点目。犯罪者から詐欺行為によって金を奪ったとして、それを本来の持ち主である被害者にどうやって返済するのでしょう。
以前、拉致問題が発覚した時、チマチョゴリを着ている朝鮮学校の女子生徒に罵声を浴びせるという事件が話題になったことがあります。そういった思想につながる危険な考えと思います。
URLはダミーです。
自分的には、クロサギはOKです。「正しい」とまでは言えないけれど、助かる人がちゃんといて、騙す相手は悪い人ですから。
でも、デスノートは間違っている。殺すという行為が良くない。。。。って、見るときはそういう目で見ないけど。
http://jump.shueisha.co.jp/deathnote/
正しいと思います。周りに迷惑をかけるような人々に制裁を与えるわけですが、それで良いと思います。そうすれば悪い事をする人はいなくなるし、世の中は平和が保たれます。
この世の中を平和に保つには、もうそういったやり方しかないと思うのです。なのでキラやクロサギがこの世に存在すれば、ちょっと怖いですが世の中は平和になるはずです。なので正しいと思いました。
両方ともフィクションで実際に社会にそのようなことをやる人はいませんが。悪い人を殺すのは裁判で死刑がありますよね。でも実際、死刑に値すると思っても無期だったりします。被害者にしてみれば殺したい気持ちですよね。こんなときに殺しやる・・・なんて思います。
法律で裁いてくなかったり法の下で平等でなかったら誰かが仕返しするのもアリだと思います。
自分は賛成です。
http://yahoo.comダミーです
人力検索はてな - 「クロサギ」(詐欺師を詐欺する)「デスノート」(悪い人を殺す)などの、一見正義とも言えるようなこのような考え方(罪を犯したものに罰を与えるような)をどう思いますか。正..ダミーです。
「クロサギ」の詐欺師を詐欺する行為について
世の中には自分が犯したことのある犯罪をやり返されて被害者の気持ちが始めて解る人も詐欺師の中には存在する可能性があるかもしれませんが、やり返されて「被害者の気持ちなんて考えずにとことん騙してやろう」と考える詐欺師も存在する事も考えられるので、詐欺師を詐欺する行為で必ず全てが解決する保証がないので正しいとは思いません。
「デスノート」悪い人を殺す行為について
人が生きていく上で「殺したい」とは思わないまでも「憎しみ」という思いを持ったことのある人は存在すると思います。
例えばの話ですが、憎いと思った人が自分には存在し、自分にとって相手が邪魔な存在に感じ、自分にとって悪い人となります。
悪い人を殺す行為が正当化されるならばこの時点で殺しても構わない事になるのではないでしょうか。
悪い人、良い人を判断する基準が必要だと考えられる「デスノート」。
悪い人を殺す行為で解決すると思うのは簡単ですが、悪い人は罪の認識・償う事はなくこの世から消える事で果たして解決したと思ってもいいのでしょうか。
私は悪い人が罪の認識・償う事で被害者が簡単に納得する事は無いと思います。
犯罪が防げてないというイメージを持つ世の中だからこそ「デスノート」が生まれたのだと思います。
「デスノート」の存在は確かに便利ですが、「天誅」と叫んで悪を斬る時代は何を解決できたでしょうか。
悪い人を殺す行為について歴史を振り替えあってその場凌ぎのように感じるので正しくはないと思います。
現行の刑法による処罰は必ずしも被害者の心情を完全に反映したものではありません。
又、詐欺によって自殺者が出ても殺人罪には問われない等ある側面から見ると不条理な面もあります。
従って、「悪意を持って他人に損害を与えた人」に対しては被害者が望むのであれば法律以外による罰を与えてもいいと思います。あくまでも「罰を与えるべき」ではなく「罰を与えてもいい」です。
但し、罰を与える人も刑法に反した行動をとるわけで、その後は適正な裁判に従って法的に裁かれるべきだと思いますので、そういう覚悟はひつようだと思います。
http://www.jca.apc.org/~sei-u/hitotsubo_kanto/Kokaishinri/ikensy...
クロサギやデスノートは間違いだと思います。
どなたかも言われてますが、罪刑法定主義という大前提を考えるなら
罪はそれ相応の機関が裁くものです。
個人が自分の裁量で裁くものではありません。
罪に対する罰の重さは人の主観によって判断されるものではありませんからね。
ただし、クロサギやデスノートとは全く関係なくただ単に
「罪を犯したものに罰を与える」という行為は間違いではないと思いますよ。
それを行っているのが裁判所です。
罪刑法定主義↓
http://www.court-law-office.gr.jp/mini-jiten/jiten-html/sa-line/...
個人的には…
両者ともありだと思います。
理由としては、ルパンなど、義賊の物語は人気を持っています。
お宝の盗みなどが現実味を失ってきているので、デスノートは現代版の義賊と捉えることができます(作品としては後半義賊面が薄れましたが)
よって両者ともありと考えます。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/abandoning/?1147956130
ダミーです。
詐欺とかならいいと思います。
ただし自分の儲けのためじゃなく。
殺すのは賛成できません。
殺してもいいと思うような人間はたくさんいますがどこからその範囲にはいるのか微妙なので。。
間違っています。クロサギにしたってデスノートにしたって行っている行為は犯罪に変わりありません。
詐欺をしている人から詐欺を行う事は詐欺です。
犯罪を犯している人を殺すことも犯罪です。
一見正義の行いにも見えますが、結局は犯罪なのです。
リンクは検察庁。
間違っていると思います。
動機が善意でも、結果が善行でも、行為が悪であれば悪です。トラブルをヤクザに頼んで処理してもらうということは正しいかというと、一般論としては正しくない。
ゆえに、罪を犯したものに私的に罰を与える行為は許されません。
罰を与えるのは公権力だけであり、個人が罰を与えるべきではありません。私刑(リンチ)は犯罪です。
江戸時代までは私刑(リンチ)を合法とする制度が残っていましたが、明治維新による刑法の近代化により、私刑(リンチ)制度は廃止され、刑罰は検察官の控訴のみによって提起され裁判所のみが刑罰を決定されるようになりました。このことを国家訴追主義、または起訴独占主義と言います。
検察官は被害者のためのみに存在しているのではなく、社会秩序の維持という観点から、公益の代表者として起訴します。被害者の感情を晴らすことが刑罰なら、もし被害者の感情を損なわなければどんな犯罪も許されるということにもなりかねません。
ただし、行為が悪として裁かれたとしても、動機や結果といった情状は酌量されるべきてす。悪い行為は悪い行為=有罪とされねばなりませんが、量刑については個別に動機や結果を考慮する必要があります。
警察・検察・裁判所の不作為、怠慢、不正は社会に歪みを生じさせ、犯罪による不安を増大させます。そういう社会の歪みや不安が、クロサギやデスノートを賞讃する声の遠因になっていることは指摘されるべきでしょう。
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