私がした質問ではありませんが、上記質問についてみなさんのご意見が聞きたいです。
「ジェンダーフリー」と「性教育」とは、このように短絡的に結びつけて論じていい問題なのでしょうか。どうも『過激な性教育をさせるジェンダーフリーけしからん』などという考え方は、異なる問題をごっちゃにして考えてしまっているような気がします。
そこで、この問題に関して、「ジェンダーフリー」「ジェンダーフリー教育」「性教育」という3つの視点から、これらの話題が不可分なものか、分けて考えるべき問題なのかを明確にして論じてください。
また、URLは参考程度のもので構いませんが、ダミーはなしでお願いします。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%8...
この問題について語ることは自分自身の「性と社会の関係」に対する考え、
すなわち「自分自身」語ることに繋がるというリスクを背負っているわけですが、
そこが興味深いところでもありますので、あえて回答してみたいと思います。
まず「ジェンダーフリー」「ジェンダーフリー教育」と「性教育」は明確に分けることができると自分は考えます。
「性教育」は極論すれば「生物学」「医学」的なものを中心に据えることが、その役割だと思います。
(性感染病・妊娠・中絶のリスクなどを中学生程度から教えること、現状を考えると高校生ぐらいには避妊具の使い方まで教える必要性があるかもしれません)
「性」が持つ「哲学」的な部分は文学などが受け持つ領域でしょう。
「ジェンダーフリー」「ジェンダーフリー教育」ですがこちらは「社会学」「思想」に属する物だと自分は思います。
「ジェンダーフリー」という考え方はあって良いのですが、公立の教育機関で強制(矯正)されるのは如何かなと感じます、、、この部分(ジェンダー(性差))に関する教育は家庭で行うべきだと自分は考えています。
(もっとも個人の「思想」に関する部分の躾まで学校に頼らざるを得ないほど、家庭教育が弱体化している点がそもそもの問題なのですが…。)
ジェンダーにまつわる問題と性教育に関する問題とは、それぞれの領域が重なる部分は大きくあるとは思います。例えば、「男だから~~でなければならない」「女だから~~でなければならない」という考えに対して「それはおかしいから変えて行こうよ」と思うのであれば、「じゃあそもそも『男』って何?『女』って何?」といったところから問い直す必要があるでしょう。
次の世代を生きる子どもたちが、ジェンダーに対して無自覚であるがために不幸になってしまうことのないように、ジェンダーの問題を注意深く考える立場から性教育を行っていこう、という立場は、ですから十分に成立すると思います。
しかし、「ジェンダーについての問題を解決するための性教育」以外にも、違う目的から性教育を組み立てることもできるわけです。例えば、今は若者の人工妊娠中絶や性感染症の増加という問題がありまして、このようなことで若者が不幸にならないようにという目的での性教育も行われています。あるいは宗教的教育の一部としてなされる性教育もあるでしょう。ですから、教育におけるジェンダーの問題と、性教育の問題とは、一応は分けて考えることができると思います。
参考になるかどうかわかりませんが……
“人間と性”教育研究協議会
ありがとうございます。
なるほど確かに重なる部分もありますね。
>「じゃあそもそも『男』って何?『女』って何?」
の部分なんですが、このときの『男』『女』を生物学的な『男』『女』のことであると考えると、その時点で「ジェンダー」が対象とする領域からはずれてしまうような気もします。
そこまで問題を細分化する必要はないんでしょうかね?分からなくなってきました。
ジェンダーフリーについてはあまり関心がないのですが、なぜ性教育の話と絡めるのかいまいちよくわかりません。
私は性教育を教える前にもっと愛について語るべきだと思います。
欲望の先にセックスがあるのではなく、愛情の先にあるものだと認識した上で性教育を行うべきです。
教える内容が過激だとか、足りないとか、早すぎるとか、それは時代によって変わっていくと思いますが、性を知る前にもっと、愛について理解深めていかなければならないと思います。
愛を教えることが出来ない現在の社会環境が性教育をもゆがめているのではないでしょうか?
URLはダミーで私のブログですので、ポイントは必要ありません。
ありがとうございます。
興味深いお話ですが、今回問題にしているのは「ジェンダー」という文脈に「性教育」がなぜ絡んでくるのか、ということですので少々論点がずれます。私もなぜ「性教育」の話と絡めるのかよくわかりません。
「愛」についてはまた別の機会にお聞きしたいです。
ジェンダー教育はたしかに必要ですね。男は男らしく、女は女らしく。
質問文をよく読んでください。答えられないものに無理して答える必要はありません。URLも人を馬鹿にしているとしか思えませんね。
他にも同じことをやらかしているようですが今回で最後にしてください。
ムキー
教育は必然的にある種の価値判断を伴います。
と同時にあまり偏った教育が、とくに公教育の場でなされるのがいいか、という問題があります。
だからジェンダーフリーが、公教育以外の場で主張される時はまったく問題がないはずですが、それが公教育の場に出てくるときに、論争が出てくるのは避けられないでしょう。
性教育に関しても、たしかにジェンダーよりはより生物学的な意味での客観性はあるから判断はやや楽ですが、たとえば中絶というのは道徳的に悪なのか、それともひとつの手段としてはありえるのか、これをどちらの立場に立つかだけで大きく変わってくるでしょう。
ですから、それぞれは別物だが、「どこまでが立場によっても変わらない客観的な事実で、どこまでが『一定の立場からの価値判断』なのか」を考えるとき分離しがたい面もあるのではないでしょうか
。
米国の性意識、性行動及び性教育の動向と我が国の課題
http://www.shitennoji.ac.jp/ibu/toshokan/data/kiyo2004w/kiyo2004...
ありがとうございます。
個人的には「ジェンダーフリー」自体は公教育の場に持ち込んでも全く問題はないと考えてますし、むしろ持ち込むべきであると思っています。ここでポイントとなるのが「ジェンダーフリー教育」で、これがなぜか「ジェンダーフリー」の思想を曲解した形で「性教育」と短絡的に結びつけようとしている人たちがいるのではないか?と思ったことが今回の質問のスタート地点です。
その点で、「生物学的な意味での客観性」という視点は頭にありませんでした。なるほど。
http://homepage3.nifty.com/dou/
ジェンダーと性教育の問題は、本来別々に考えるべきものだろうと思います。
それができなくなっているのは、両者をセットで扱う意思が、現実の世の中に存在してきたことにあると思います。
要するに、保守的な思想:国家に所属する個人、家庭に所属する個人、を解体して、個人の集合体としての家族、国家というものに変えていくべきとするイデオロギーがある訳で、それを推進する手段のひとつとして、性教育を活用してきた現実があります。
それに対する批判が、マスコミでも扱われるようになったのがここ数年の状況で、ゆえに両者はセットで語られるようになっているのだと思います。
「性」は誰にも共通に切実かつ趣味性や快楽につながるものであるだけに、イデオロギーにとっても手段として活用しやすいという性格があると思います。
サイトは参考まで。
ありがとうございます。
URL目がチカチカしますね・・・。
「性教育」批判が「ジェンダーフリー」批判につながっていくのはマスコミの作為的な報道も大きく寄与しているのでしょうね。
rg7-421さんのおっしゃるように、当該質問にはご指摘のような短絡が感じられると思います。ただしその混乱は、当該質問の質問者さんだけのものではありません。
過去に、性教育(及びそのバッシング)がどのような方向付けで進められてきたかを丁寧にまとめたサイト(東京弁護士会が都議会における性教育バッシングを批判したサイト資料)がありましたので、まずこれをご覧下さい。
http://comcom.jca.apc.org/freedom/siryou/siryou_050127e.html
これを見ると、
・性教育については、1947年にスタートした当初から「早すぎる・教える必要ない」という批判が存在したこと。
・しかしながら文部省(当時)は「時代の変化・正しい知識の徹底」を中心に、「生命尊重」の観点から、10年前まで現場に早期からの指導の徹底を指導してきたこと。
・ターニングポイントは2002年で、まず「『過激な性教育』批判」として出発したこと。このときは「過激な性教育=左翼教員」という主旨の批判だったこと。
・次に、2003年、はじめて「過激な性教育」と「ジェンダーフリー」を関連させ「日本の伝統を破壊する革命運動」として批判する質問が出てきたこと。
などが分かります。
これを見ると「元からある性教育への反感」と「左翼主義への反感」が、2002年頃からの新保守主義的思想と結びついて、教育現場への過敏というより誤解に基づいた介入(リンク先、及び下にあげた私のブログエントリに説明してありますが)を是としてしまうような錯誤を生じさせたのではないかと考えられます。
そもそも話の筋から言って、性教育とは
1)「やむを得ず生まれてくる『男女の身体的差』に関する正確な知識(健康教育としての性教育)」
2)「男女が互いを尊重し合うという社会のあり方に関する指導(性倫理教育)」
の両方を含意します。おそらく「ジェンダーフリー批判」との関連で問題とされるのは後者で、性倫理について考える際に『社会の(あるべき)あり方』に関する教員個人の考え方が入り込む(そしてその内容によっては、批判者にとってそれが非常に気にくわない内容である)ことがあり得る、ということなのでしょう。確かに教員個人の偏った世界観が「性教育」という名の下に展開される危険があるのは構造上あり得ることかもしれませんが、それは逆の場合も同じで、教員個人の「ジェンダーバイアスの強い社会観」が「性教育」の名の下に行われる可能性だって十分あるわけです。というより、そもそも性教育は(1)において「男女の違い」を教える教育であり、従って(2)「社会における男女のありよう」を語る際にもその「違い」を全く無視することが難しく、場合によっては社会的なバイアスを無批判に是として教え込む(ここでいう「バイアス」とは『男は働き、女性は子供を産み育てるのが理想だ』…などの偏向した固定観念を指すと考えて下さい)可能性だって高いのではないでしょうか。その危険に敏感になればなるほど、むしろ「社会的なバイアスを批判する論調」に走りがちなのは避けられないことでその意味でジェンダーフリーの物の考え方に同調しやすいのはやむを得ないことだと私は考えています(ただし、リンクしたブログエントリに書いたように、ジェンダーフリーそれ自体を「絶対的に正しい唯一の思想」のようにあがめ奉るのも間違いだと私は考えています。性に対する自分の考え方をしっかりと持てていない場合に、そういう錯誤は起こりやすいのではないでしょうか。そしてそういう人は本当の意味でジェンダーから「フリー」になれていないのではないかと私は思います)。従って、教育の現場において「性教育」がしばしば「ジェンダーフリー思想」と関連があるかのように見えるのはやむを得ないのではないでしょうか。
つまり、言葉の正しい意味で『ジェンダーからフリーになっている人』にしか(2)の意味での「社会における男女のありよう」を子供に語ることを任せるべきではないと思うのですが、
A.批判している側もされている側も「ジェンダーからフリーになること」の意味を理解しきれていない現状があること。
B.従って、一部の「性教育」で問題のある指導が行われていること(ジェンダーフリーと称する考え方においても、またその逆においても)
は事実だと思います。しかし、
C.本来それらは無関係なものであること。
D.無関係であることを理解するためにも、「ジェンダーフリー」という思想に対する正しい知識が必要であること。
ということも強調しておきたい。その意味で、現在のバッシングには百害あって一利ないと私は考えます。
最後に、以下が当該質問に対してTBした私のブログエントリです。
http://d.hatena.ne.jp/jo_30/20060506/1146851629
指摘している内容は主として『「ジェンダーフリー」という考え方に対する誤解』です。
丁寧にありがとうございます。
私は浅学のままこの話題に触れてしまってお恥ずかしい限りなのですが、かなりすっきりしました。「性教育」の健康教育としての性教育と、性倫理教育という2つの意味のうち2つめの意味と「ジェンダーフリー」の考え方が『同調しやすい』ということですね。
現在の、誤解している人が誤解している人を批判するために批判しているというよくわからない状況を見ていて、本質がどこにあるのかわからなくなってました。
挙げてくださった2つのURLも両方とも興味深いものでした。
http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/genderfreeQandA.html
1.言葉の定義を考えた場合、当然に質問者の考えが妥当でしょう。
2.ジェンダーフリーとはそもそも和製英語であり、基本的な理念としては日本国憲法第14条の法の元の平等に規定する、男女間の格差排除が趣旨と考えられているからです。
3.この本来の趣旨から考えると、ジェンダーフリー教育とは、現行発生している男女間格差問題について、憲法第14条の趣旨から考え、どうあるべきかを解く教育と言えるでしょう。
4.即ち雇用機会均等法等、男女間で発生している既存の性差別に対する、発展的解決策を教育する術と言えるわけです。
5.一方で性教育とは、単純に性についての教育形態であり、生命維持の観点から性がどうして発生しているか、男性と女性の性的役割とは何か、と言ったことを教育するものであり、ジェンダーフリー教育とは、本来の趣旨が相違しているものな訳です。
6.但し、日本語とは不思議なもので、本来の趣旨とは相違した内容を定義と考えている人間が増加した場合、誤解した定義も同時に当該用語の定義となる場合があるので、要注意です。
7.情けは人のためならず、などは特にそうで、本来情けは回りまわって自分が受ける、と言う意味から、情けをかけると人を駄目にする、と言う両方の意味を持つようになってしまったのです。
ありがとうございます。
7番の回答でもあったように、やはり元々分けて論じるべき問題のようですね。
この問題に限らず、実際に議論しているときに、よく言葉の定義があいまいなままいろんな問題をごっちゃにして議論が進むことがあります。そこで、言葉の定義の再確認と各問題の切り分けを提案するといつも「君は理屈っぽいからだめだ」って言われます。見た目のインパクトの強さやイメージで語るのが世の中全体の傾向であるのかなと思ってしまいます。蛇足でした。
「性教育」と「ジェンダーフリー教育」は、無関係というかむしろ逆側になる話ではないですか?「性教育」は男女の体の機能の異なる部分について教えることですし、「ジェンダーフリー教育」は体の違いとは別に、学校での扱いに差をなくすということでしょうから、全く関連づく話ではないでしょう。両立もできますし、片方だけ行うこともできるでしょう。
「性教育」は正しい避妊、性感染症の知識をつけるため必要(家庭では教えにくいので、これだけは学校でやってほしい)。
「ジェンダーフリー教育」は、教育の中身の問題というよりまず、学校の制度から意味のない男女区別をなくすことからじゃないですか?名簿も、体操着も生徒会も分ける必要ないでしょう。もっとも性差別なのは男子校、女子校の存在かと。同じ桐蔭に入るために、男子と女子であれだけ合格ラインが違うのはおかしいと思います。
中身に関しては、「性役割なんてものはないんだ」と教えて、実社会とのギャップに戸惑わせるよりも、「性役割っぽいものが昔はあって、今もまだ残っているけど、そんなのはこれからは気にすることないから自分の能力を生かしてやりたいようにやれ」と教えてくれた方が、なじみやすいのではと思います。
http://d.hatena.ne.jp/gettoblaster/searchdiary?word=%A5%B8%A5%A7...
ありがとうございます。
少々語弊があるかもしれませんが、まさしく「ジェンダーフリー」=「やりたいようにやれ」という簡単なものだと思います。これを「性差をなくす」などと行き過ぎた理解をしてしまうせいで問題がややこしくなってしまうんでしょう。
URL先の内容かなりおもしろかったです。
ジェンダーフリーとか言ってるおばさんって、だいたいセクハラ系なんですね。話もだいたいエロ話が多いです。おばさんのエロ話って、だいたい他の人には、即物的でグロく聞こえるんです。だから、苦情がでるんだと思います。
だから、ジェンダーフリーとエロ話には必然性はないのですが、事実としてセットになっています。なぜなら、ジェンダーフリー論者=セクハラばばあ だからです。
それなりに興味深い指摘だとは思います。
ありがとうございます。
確かに「性教育」という文脈の「性」は生物的医学的な意味を持ち、「社会的文化的性差」という文脈の「性」はそうでない、と考えられますね。
疑問なのは、上記いわし質問に限らずなぜ「性教育」という問題に「ジェンダー」の話が出てくるのかということです。
蛇足ですが、先日の岐阜県中津川市の事件の犯人である15歳の男に2歳の子どもがいる、という事例を見ると、小学生のうちから高度な性教育をすべきなのではないかと思うこともあります