「ゲーム」と「現実」の違いを考察してください。


※「ゲーム」が意味するものは、MMOをはじめとする技術的に可能であろう擬似世界です。
※「価値」「感覚」「コミュニケーション」「リアリティ」「制限」等のキーワードを含んでいるとよりよいです。

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回答42件)

id:chatoraneko No.1

回答回数221ベストアンサー獲得回数0

ポイント3pt

ゲームでは自分を破棄して作り直すことができるが

現実ではできない。

id:masasan

自分を作り直すことの出来ない「ゲーム」は可能ではないですか?私は可能なように思います。

条件に入れようか迷ったのですが、

※最低5行以上のまとまった量と、ある程度明快な文章での回答を希望します。

ゆっくり回答をお待ちしますので、よく考えて回答ください。

2005/06/27 23:20:27
id:janna No.2

回答回数62ベストアンサー獲得回数0

ポイント5pt

http://weather.yahoo.co.jp/weather/

Yahoo!ŷ������

URLはダミーです。

ゲームと現実とを分けるのは「リアリティ」だけだと思います。

この場合のリアリティというのは、ゲームの世界に含まれないものがどれだけあるかということです。例えば、生計を立てたり、台所で食事を作ったり、席を立ってトイレに行ったり、です。

将来的には現実と違いの無いリアリティを持つゲームもでてくると思います(感覚的にも、経済面や生命維持についても)。

そういったときには現実とゲームを分ける意味はなくなると同時にほぼ違いはなくなると思います。

id:masasan

生計を立てたり、トイレに行ったりとか、既にゲームの中にあると思います。

「リアリティ」についてはもう少し考察して貰わないとあまり内容があるように思えません。

ですので、将来的にゲームと現実の境が無くなる可能性があるといった主張の根拠も不明確です。

2005/06/27 23:37:27
id:flitter No.3

回答回数70ベストアンサー獲得回数2

ポイント8pt

一言で言えば、『ごっこ遊び』かどうかではないでしょうか。


ネットゲームだろうが、ドッジボールだろうが、

そこには現実と同じようにコミュニケーションが存在するし、

悲しみを覚え、痛みを感じることもあります。


現実とは違うルールに支配されているということが

認識されているかどうかではないかと思うのです。

id:masasan

認識…。

認識しうるルールの違いがあるかどうかということでしょうか。

あるいは、ルールの違いを認識をしている人にとってはゲームで、してない人にとっては現実ということでしょうか。

例えば恋愛ゲームって、現実じゃないんですかね。

「ルール」は面白い観点ですが、さらに明確にして欲しいです。

一応コンピュータゲーム的なものをひとつの想定物としていましたが、「ゲーム」の概念自体が質問対象なので、広く捉えた「ゲーム」への回答もお待ちします。

2005/06/27 23:51:17
id:kosuke2005 No.4

回答回数1351ベストアンサー獲得回数7

ポイント10pt

今や誰も信じる人もいないだろうが、一昔前、年少者が犯罪を犯したり、あるいは犯罪とはいかないまでも問題のある行動を起こした時、「テレビゲームと現実の区別がつかない」だとか「ゲームはリセットできるけれど、現実はやり直せない」などという出鱈目な意見がまかり通ってしまう時代があった。


こうした意見がまかり通る背景には、現実の方がより「切実」であり、ゲームなどは「遊び」にすぎない、という幻想があるのであろう。


この幻想は不自然ではないか。

なぜ「切実さ」が顕揚され、「遊び」が貶められるのか。

なぜ「切実さ」と「遊び」を同等に扱ってはいけないのか。

しかし、こうした不自然な幻想は、いかにも自然に共有されてしまう。


言うまでもなく、ゲームとは現実の一部分である。

ゲームと現実を区別したがる人は、ゲームを楽しい遊びの空間だと勘違いするのだろう。

しかし、ゲームの世界は理想郷ではない。ゲームの中でも挫折はする。苦しみもある。

楽しいだけがゲームではない。ゲームの中にはルールがあり、やりたくてもできないことがある。窮屈な世界だ。

確かにリセットはできる。しかしリセットしたからといって、時間までは取り戻せない。

リセットする前に消費した現実の時間は帰ってこない。それはゲームが現実だからだ。


勿論ゲームの中の「おはなし=物語」は虚構の産物である。

そして、現実に生起している「出来事=物語」もまた同じ類のもの、すなわち虚構である。


その二つの虚構の違いは、一方は「エンターテインメント」というレッテルが貼ってあり、もう一方には「現実」というレッテルが貼ってあるという違いにすぎない。

つまりレッテルの名前の違いだけであり、実質的な差異は少ない。

両者とも程よく「現実」であり、また「虚構」である。


ところで、ゲームと現実を区別することで生産される幻想の物語は、一つの弊害を生産する。


ゲームと現実を区別することを、もし、ゲームのプレイヤーも信じてしまったらどうなるか。

ゲームと現実を比較して「ゲームの方が楽しいから、現実はどうでもいい」という風になってしまうかもしれない。

ゲームと現実を区別しなければ、ゲームも現実も同等に扱うわけだから、どちらか一方が「どうでもいい」なんてことにはならないだろう。

区別するからこそ、そこに何らかの価値判断(現実>ゲーム、あるいはゲーム>現実)を下してしまうのである。

区別するからこそ、ゲームの世界に埋没してしまう人もでてきてしまうのである。


嘘から出たまこと。最初は途方もない幻想の物語であった「ゲームと現実との区別」が、その不自然さを忘れ去られ、皆に共有されることで幻想ではなくなり、ひとつの現実としてゲームの世界に埋没してしまう人を生産してしまう。


これは恐ろしい事態だ。

念のために言っておくが、ゲームの世界への埋没が恐ろしいのではない。


「自然さを装った不自然さ」の共有による「不自然さ」の忘却。

その忘却による「自然さ」の強化と、新たな「自然さを装った不自然さ」の生産。


この悪循環が恐ろしいのだ。

しかもこの悪循環は抜け出すことができない。

日記その他で散々書いたのでここでは詳述しないが、こうした悪循環を糧に現代の社会は回転しているのだ。

だからこの悪循環を真っ向から否定することはできない。


我々に出来ることは、現実とゲームを同等に扱うこと。

決して一方に深入りしないこと。

現実とゲームを、その窮屈さを感じながら、しかし、あっけらかんと遊ぶこと。

id:masasan

> ゲームとは現実の一部分である。

というのは、ひとつ重要な指摘ですね。回答3.にも言外に含まれているとおもいます。

べん図で言うと、現実という括りの内部にゲームという括りがあるという主張ですね。

質問とすこしずれますが、

> なぜ「切実さ」と「遊び」を同等に扱ってはいけないのか。

してはいけない。とは思いませんが

> 我々に出来ることは、現実とゲームを同等に扱うこと。

扱うべきである様への展開は、イマイチ納得出来ませんでした。

現実という括りの中に、ゲームがあり現実Aがあり現実Bがあるとして、それぞれにプライオリティをつけることは自然なことのように思えます。人によってはゲームの順位を高くしてもいいし、現実Aを現実Bより優先してもいい。(そういう点ではゲームと、他の現実は必ずしも区別されない)

例えば現実的に生計を立てていくという観点、価値付けをすれば自ずと優先順位ができるのかなと思います。

ゲームと現実は、言葉上区別されていることからも一定の特質の差のようなものがあるのではないかと思うのですが。そのようなゲームの特質を回答してもらえないでしょうか?

あるいはエンターテインメントであるか否か、という違いだけなのでしょうか。

2005/06/28 00:28:34
id:cejlk No.5

回答回数260ベストアンサー獲得回数1

ポイント10pt

現実の時間について。


例えば、学校へ行ったある日、髪型の事でひどくからかわれたとしよう。

だから、その日の朝へ戻って、違う髪形にセットした。

そのことにより、髪型の事でひどくからかわれることはないか?

違う、歴史は変わらない。

なぜならば、時間軸が無数あるからである。

素因がある限り、その人は髪型でからかわれる運命に遭うのだ。


ゲームの時間について


上記同様のイベントがあった場合

その対処方法(本件は髪型のセット)を行えば。

その対処後の時間軸を進む。

その時間軸の数は、1億パターンすらない

リアリティーとは非常に、乖離した狭い世界だ。


つまり、時間軸は無数になど作れやしない。

それが、ゲームにおける制限なのである。

id:masasan

一言で言うと「ゲームにおける制限は、パターンの少なさ」ということでしょうか。

オフラインゲームの時代は、それこそ用意されたイベントや決まったプログラミングの域を出ることができなかったと思うのですが、オンラインゲームになったことで人間が相手となり飛躍的にパターンは増えたのではないでしょうか。

現実と比較してまだパターンが少ないとしたらその要因は、例えば情報経路の少なさなどになるのでしょうか。

2005/06/28 00:38:50
id:inasuka No.6

回答回数52ベストアンサー獲得回数0

ポイント5pt

アドレスはダミーです。

難しい質問ですかね?

あなたが「ゲーム」をやってる世界が、「現実」という世界ですよ。逆は成り立ちません。

「現実」という世界において、「ゲーム」ができるのです。

id:masasan

既出の「現実の中にゲームが含まれている」的回答ですね。

AさんはBさんより背が高いと言うことによって、一つの特徴は捉えているのですが、よりAさんについて知りたいと思っている人にとっては、物足りない回答となるでしょう。

2005/06/28 00:43:03
id:clockwork_mikan No.7

回答回数248ベストアンサー獲得回数4

ポイント30pt

オンラインゲームのように”コミュニケーション”が成立し、

且つ、ある種の目的・利害・”価値”を共有出来るようになった現在、

『ゲーム』と『現実』の世界を隔てる境界線が

漠然としてきたことは事実だと思います。


現実の世界に辛うじて拘泥されている理由は、

摂取・排泄・睡眠などに起因した肉体的な”制限”、

そしてそれを補完するための経済性だけなのかもしれませんしね。


また、”リアリティ”と云う言葉はあまり重要ではなくなってきましたね。

模倣に対する雛形、或いは現実の世界と仮想の世界、

つまり、A及びA’を識別するキーワードに過ぎませんからね。


もし、オンラインゲーム、或いはコミュニティーの中で、

経済性を確立することが出来るのであれば、

現実の肉体は、ゲームの世界の中の己をサポートするデバイス以外の何者でもない訳で、

その上で、バイオフィジカルな感覚すらも体験出来るようになってしまえば、

もはや現実は、単なるスピリチュアルな入れ物になってしまいますね。

id:masasan

> 現実の世界に辛うじて拘泥されている

私には、多くの人がまだ深く世界と繋がっているよう

にみえます。(現代人、特に日本人は比較的繋がりが希薄にも思えますが)

昔、現実からゲームへ価値(物)を抽入することはできても、ゲームの中の世界へ価値(物)を取り出すことが出来ないんじゃないかと考えたことがあります。

しかし、あるゲームの中で流通する貨幣が、ネットオークションで取引されることがあるそうで、最近は必ずしも価値や経済的なものが一方向ではないなと思っています。

私は、人間が「スピリチュアルな入れ物」化してしまうのにはまだ程遠いと思っていて、それは現状の人類が持っている感覚器官や身体に比べ、「入れ物」と外部とのインターフェイスだけをとってみても相当に原始的でちゃちなものだと思うからです。

でも、そのちゃちなものからでも脳を使っていろんなイメージやら体験が出来てしまうところが恐ろしいななんて思います。

ちゃちなものに慣れすぎると、ノンバーバルで記号的でない”リアル”を感じる力が退化してしまうんじゃないかと思って。

2005/06/28 01:22:07
id:NiwanoHiyoko No.8

回答回数247ベストアンサー獲得回数1

ポイント12pt

http://www.hatena.ne.jp/1119881393#

人力検索はてな - 「ゲーム」と「現実」の違いを考察してください。 ※「ゲーム」が意味するものは、MMOをはじめとする技術的に可能であろう擬似世界です。 ※「価値」「感覚」「コミュニケ..

上記はダミーです。


現実の世界では、痛み等の感覚が応じます。

また、目には見えませんが、出会った人や動物、植物などから(ただそこにいうというだけで)愛情や元気、勇気などを与え合っているように思います。共に支えあい、共に生きるという共存関係。それこそ、まさに、生きているということに対する価値を与えてくれるものではないでしょうか。


一方、ゲームにおいては、ゲーム中に出てきた登場人物や動物、ゲームプレーヤーなどが傷ついても、感覚を伴いません。

しかも、何かを共に達成したとしても、そこから得るものはあまりないように思うのです。


しかも、現実の世界では、己の寿命という制限時間がありながらも、自分の人生ゲームが何時終わるかという時間制限は、はっきりと見えません。いつまでも「今」が永遠に続くようにさえ思ってしまうのです。もしも、人生にだって時間制限があるって常に自覚していれば、毎日を自分のやりたいことにだけ費やしているはずです。ゲームなんて、している時間がもったいないと思うでしょう。


ところが、テレビやコンピュータ・ゲームの時間制限は、大抵の場合, 目に見えています。しかも、数分から数時間と短いですよね。だから、集中して、一生懸命になってしまうのではないでしょうか。


最後に, この質問にお答えしていて、何かを学ばせていただいたように思えます。

現実の人生にだって、タイムリミットはあるんですよね。

思い出せてよかったです(笑)。ありがとうございます。

id:masasan

植物と、愛情や勇気を与え合うってとても素敵な感覚ですね。小確幸、一つ発見です。

(時間)感覚の現実性の違いを、体験的感覚的に説明してもらいました。通常の感覚から言うと確かに、それが一つの正解だとは思います。

しかし、中には深くゲームの世界に入り込んでしまうと時間感覚もある種の痛みも共存関係もが現実世界より拡大されて感じられる(イメージされる)場合があるのだと思います。

そのような人にとっては、ゲームをする時間より自分が入浴する時間の方が勿体無いのです。

> 現実の人生にだって、タイムリミットはあるんですよね。

ある意味で現代は、現実の世界がゲーム化しているのかもしれません。ときどき植物や動物と一緒に、現実に生きていることを確かめ合うのも、良いかもしれませんね。

2005/06/28 01:49:24
id:kireikun No.9

回答回数5ベストアンサー獲得回数1

ポイント12pt

URLはダミー、というか読んでません。


ゲームと現実の違いは、それを認識する人がどちらに立って認識しているかの違いではないでしょうか。

立ち位置から見て、仮想的な世界として参加できるのが「ゲーム」。

立ち位置側(こっち側)、仮想的な世界に参加するために立脚している世界が「現実」。


例えばものすごく現実感のあるゲームがあるとして、そっち側で生活(喜怒哀楽や人生の色々)を体験できるとしたら、その世界は認識の立脚点になりうるほどしっかりしているって思えて、いま僕らのいるこっち側が「ゲーム」に見えてくるかもしれません。


そうすると、よく「マネーゲーム」って言いますけど、マネーをゲームとして楽しめる大金持ちな人は、マネーっていう仮想的な世界をあくまでも仮想的な世界(ゲーム)として楽しんでいるので、こっち側(僕らのいる喜怒哀楽や人生の色々がある世界)にしっかり立脚した人なのかも知れません。僕なんかお金持ちじゃないので、うっかりマネー側の世界を唯一の現実だと思いがちです。

id:masasan

立脚点、つまりどちらに重きを置くか的なかんじでしょうか。

通常は立脚点が仮想世界ではなく現実世界にある、というのが特徴という主張でしょうか。

足りないです、もう少し掘り下げて欲しいです。

「マネーゲーム」ってそれを行っている周囲が言う言葉であって本人が言うイメージは、私は少ないです。

2005/06/28 22:23:52
id:mon23 No.10

回答回数12ベストアンサー獲得回数0

ポイント5pt

ゲームは人が作ったもので、現実はそうではない。ゲームは積極的に自分から参加するもので、現実は自分が参加しようとしなくてもかってに参加している。

id:masasan

これは一つ、重要なポイントじゃないかなと思います。特徴的ですよね。

ゲームは、参加(や選択)でき、辞めることができる。

現実は、有無を言わず参加し、辞めることもできない。死ねば辞めることになるかもしれませんが。

これは現実という括りのなかに、ゲームという括りが含まれていることから導かれる特徴でしょうか。

さらに展開できないですかね。

2005/06/28 22:31:19
id:m-sho No.11

回答回数947ベストアンサー獲得回数2

ポイント8pt

現段階では、

・「ゲーム」中のお金は「現実」では「価値」がない。

・「ゲーム」中の「感覚」は現実の「感覚」とは程遠く、「ゲーム」中の死は「現実」の死となることはない。

・「ゲーム」中の「コミュニケーション」は「現実」の上司のような関係は発生せず、友達の関係ばかり築かれる。

ただし、将来的にはすべて の「ゲーム」と「現実」の違いは取り除ける技術ができるでしょう。

「ゲーム」中で食事、仕事、結婚生活(性行為・妊娠)が可能になり、そして、死を迎えることができる。

id:masasan

> ・「ゲーム」中のお金は「現実」では「価値」がない。

回答7のコメントで書きましたが、ゲームのお金が現実のお金にと交換される前例があるそうです。あとは交換相手が一定量存在しつづければ、現実の金銭と互換を持つことになります。

> ・「ゲーム」中の「コミュニケーション」は「現実」の上司のような関係は発生せず、友達の関係ばかり築かれる。

上司という具体例が面白いですね。

ただ、ある種の目的の中でゆるい上下関係・役割分担的なことが発生するような気がします。でも拘束力が弱いですかね。

最後の2行はあまりよく分かりませんでした。根拠や補足、より具体的なイメージが欲しいですね。

2005/06/28 22:49:08
id:madhatter_1974 No.12

回答回数28ベストアンサー獲得回数0

ポイント30pt

http://www.hatena.ne.jp/1119881393

人力検索はてな - 「ゲーム」と「現実」の違いを考察してください。 ※「ゲーム」が意味するものは、MMOをはじめとする技術的に可能であろう擬似世界です。 ※「価値」「感覚」「コミュニケ..

ゲームと現実・・・

私も昔からよく考えることのひとつでした。

私個人の考えでは、現実であると思っている私たちですら、もしかしたら、誰かが遊んでいるゲームの中の登場キャラクターに過ぎないのかもしれません。

自分で考えて行動しているつもりでも、何かもプログラムどおりに動かされているだけかもしれない。

ゲームのキャラクターが自分がゲームの中のキャラクターだと自覚しているという保障はありません。

それを考慮すると、現実とゲームの違いは、プレイヤーがゲームキャラクターを操作しているという自覚があるかどうか、ではないかと思います。

たとえば

西遊記にある

「世界の果てを目指したはずの孫悟空が、実際は釈迦の手のひらの上からすら出ていなかった」

という逸話は、自分がプレイヤーだと思っていた孫悟空が、実際は釈迦というプレイヤーに操作されているキャラクターだったと言い換えられるでしょう。

私たちがというものを楽しむ側であるという制限をかけなければ、「現実」と「ゲーム」の違いはないと思います。

おかしな文章になってしまい申し訳ありませんでした。

id:masasan

「何かもプログラムどおりに動かされているだけかもしれない」という決定論的な想定(やメタプレイヤー)を触媒にして、「ゲーム」と「現実」を胡蝶の夢的に転換・逆転させてしまうお話かと思います。

それと、どちらが上位であるかを取り外せば、違いはないとの事ですね。

今まで、回答を開いてきたなかで、ゲームは現実に含まれる限定された世界(今後次のように表記:[ゲーム ⊂ 現実])という主張が多いです。

しかし、寝食を忘れゲームにはまり込んでしまう人も居るわけで、そのように”胡蝶の夢的転換が起こっている世界”それはどういうことなのか考えていました。

通常[ゲーム < ¥bar{ゲーム}]のところ

転換[ゲーム > ¥bar{ゲーム}]となるのかなと

集合の大小って意味分らないですが。

※¥bar{ゲーム}:はゲームの補集合のつもり

ほかに数ある現実よりゲーム世界の方が比重が高くなる、これって凄いことだと思うんですけど。

2005/06/28 23:34:35
id:juana No.13

回答回数12ベストアンサー獲得回数0

ポイント20pt

http://www.hatena.ne.jp/list#

人力検索はてな - 質問一覧

※URLはダミーです。

現実とは個人が確信を持って認識しない限り、出現しないのではないでしょうか。例えば妄想中の人と、現実的な考え事をしながらゲームをしている人がいたとしたら、ゲームと現実の違いどころか二つは逆転してしまいます。もしくはゲームも含めて夢も想像も全ては現実と考えることも出来ます。「事実は小説より奇なり」は現代では通用しなくなっていると思います。怪奇映画の方が実際に幽霊を見た人の話より怖い場合も有り得るでしょう。私たちが感覚としての現実を確立出来ないのなら、私たちは益々現実から遠ざかる事になって行くのではないでしょうか。私個人としては非現実の中のリアリティに大変興味がありますが。

id:masasan

> 現実とは個人が確信を持って認識しない限り、出現しないのではないでしょうか。

現実ってむずかしいですね。なんでしょうか。

全てが現実だとしたら、現実の縁取りを知ること現実を認識することは難しいのかもしれません。

「非現実」という言葉なんですが、それはおそらくイメージの世界で、更に言うとゲームに繋がる部分があります。ゲーム(イメージ)の中で体験することはある部分で現実だとおもいます。すると[非現実⊂現実]ということになりかねない。

言葉の定義問題になりそうですが、ちょっと面白いですね。

> 私たちは益々現実から遠ざかる事になって

そうですね。知らず知らず、記号的な生活を送り無感覚になっていくことは人生の価値を損なってしまうことなのかも。どうしたらいいんだろう。

> 非現実の中のリアリティに大変興味があります

私もありますよ。現実にせよ非現実の中にせよ、想像力・イメージする力がないとリアリティは生まれないと思います。

それと、イメージを掻き立て易いものとそうでないものの違いも興味あります。

2005/06/29 00:04:36
id:abusexx No.14

回答回数101ベストアンサー獲得回数0

ポイント8pt

http://messenger.yahoo.co.jp/

Yahoo!����

id:masasan

・[ゲーム⊂現実]

・選択肢⇒回答5のコメント参照

・触れる触れないの差

これは感覚の違いですが、重要ですよねこれ。

2005/06/29 00:11:25
id:fikalu No.15

回答回数85ベストアンサー獲得回数0

ポイント10pt

ゲームとはお手軽に全知全能の神になれるモノで、その地位の維持も簡単で、リスクが少ないモノ。


現実は権力を持つまでの過程が煩雑で、それが簡単に行く事もあるけど今度はその維持が大変になる。


北朝鮮を想像してみてください。

将軍様はあそこで神みたいな存在で、権力も世襲されたモノです。しかし、現実には兄弟を殺したり、根回ししたりして得たモノです。そして現在はアメリカを上手く懐柔しようとしたり、韓国にいい顔したり、日本から金をたかろうと大変ですし、命を狙われてます。


つまり、ゲームと現実の違いはリスクの差だと思います。

id:masasan

リスクの差。

ゲームの中でもリスクなるものは存在するように思います。現実にウン十万稼ぐより大変な労力をつぎ込んで数ポイントのレベル上げをしたりすることありますね。

まあ、いいたい事はわかりますが。

リスクについてはもう少し掘り下げて欲しいですね。

2005/06/29 00:19:04
id:sulume No.16

回答回数48ベストアンサー獲得回数0

ポイント15pt

URLはダミーです。


ゲームは抜けようと思えば抜けられる世界。現実は抜けようと思っても絶対に抜けられない世界(死ぬという選択肢は「抜ける」のとはまた違いますし)。


ゲーム内でどんなに現実的なリアリティを実現したとしても、それはどこまでいってもゲームは現実に内包されるもの、「現実の一部」でしかありません。


またゲームは現実と違い、人の手によって「与えられた」ものです。そこで行うコミュニケーションなどはそれぞれの個々人が作り出すものですが、そのゲーム内に存在するもの、できること、全てが作り手によって制限されています。現実でももちろんルールや法律、縛りがありますが、そういう社会的なものではなく、自然や科学など人が作ったものではないものが現実には数多く存在します。ゲーム世界にはそれがない。全てがプログラマの作ったプログラムによって形作られています。


このあたりが違いなのではないでしょうか。

id:masasan

なるほど。

ある種のゲームでは、ルールを拡大していくシステムを持ったものもありますが、それでも制約はある。現実には自然物が数多く存在している。

数多くの自然物に対する興味より、限定されたコミュニケーションであってもその可能性に惹かれたりする場合がある。

現実の生活なのに、空気の気配や鳥のさえずりより携帯のメールの方が重要。

2005/06/29 00:34:35
id:KuroNeko666 No.17

回答回数144ベストアンサー獲得回数2

ポイント30pt

http://b.hatena.ne.jp/keyword/URL%E3%81%AF%E3%83%80%E3%83%9F%E3%...

はてなブックマーク - URLはダミーです

「ゲーム設定における擬似世界」と「現実世界」の違いについて考察。

考察における「違い」を強調するために、比較形式にしてみました。


ゲーム(虚構)

[価値]

・エンターテイメントが重視される。


[コミュニケーション]

・テキスト中心。


[制限]

・製作者の意図によって、可能なアクションが決まる。

(道徳を考慮したゲームは、PKができないなど)

・命の取り扱い方は、かなり軽い。

(半分以上は経験値取得などの理由で虐待or殺害対象)


[リアリティ]

・通常の生活で得られる五感の刺激に対して、どれだけ精巧な嘘なのかを計る尺度。

普通は嘘であることも含めてそのまま受け入れる。


現実

[価値]

・生活が重視される。


[コミュニケーション]

・会話/テキスト/手話など、多様な表現手段を用いる。


[制限]

・責任能力の名の下に、完全に自由。

(犯罪は、個人の意思によって行われる)

・偏った愛情や食用などの理由により、命の重さが決まる。

(イヌ・ネコ・クジラなどは偏重され、鶏や牛などは屠殺される)


[リアリティ]

・通常の生活で得られる五感の刺激(リアル)そのものであり、リアリティという概念は存在しない。


まとめ。

ゲームは娯楽性に重点をおき、表情やしぐさなどの補完情報を立たれたままでのコミュニケーションしかとれない不完全なものである。

また、虚構であることが甚だしく、嘘で固められた生活を良しとする人間の育成にもなりかねない。

現実の生活との乖離が進めば、健全な生活が困難となる。


…こんなところでしょうか。

期待に添えていなかったらごめんなさい。

比較時に単純な列記をしたせいで、結論が現実から逸脱していると思わざるを得ません。

風が吹けば桶屋が儲かる理論みたい。

ゲームだけしかしないという環境は考えにくいですし、ゲームをツールとして、オフラインで話し合うことでプラスに働くコミュニケーションはできます。

どこかで考慮の記述を間違えたようです…


※ 注釈に「擬似世界」とありますので考慮からは外していますが、ゲーム自体は「娯楽」もしくは「教育・指導の概念」のどちらか、または両方を含む、人間や機械に対してのコミュニケーションだと思っています。

非常に広く、抽象的で申し訳ありません。


※ もしゲームという定義が、遊び全般にかかわることを許されるなら、以下の考えを持っています。

ゲーム(遊び)自体は文化に密接にかかわるもので、昔から教訓として扱われることが多いです。

ゲーム単体で非難されることに対して、私は否定しています。

ゲームはコミュニケーションのためのツールでもあって、遊びの中に人格形成や友達づきあい・知的好奇心の育成が凝縮されていると考えています。

子供時代はとにかく遊ぶことが第一だという考えを持っています。

結局は、質とバランス感覚の良し悪しなのではないでしょうか。

id:masasan

工夫したうえ、考察いただいたようです。

どうもありがとうございました。

ゲームの[コミュニケーション]

のところで、テキスト中心とありますね。ゲームに限らず、ネットのコミュニケーション例えばhatenaや2chでもテキスト中心だとおもうのですがやはり、はまり過ぎてしまう場合がありそうです。ある意味ではゲームの一種という見方もあるかも。

[制限]の部分両方とも面白いです。

[リアリティ]って私は、現実にもあると思います。自分のなかの認識の問題なんですけど。

ゲームの「娯楽」「教育」「教訓」などについてもなるほどなとと思いました。

バランス感覚、大事ですよね。

2005/06/29 01:14:00
id:chapuchapu2525 No.18

回答回数1334ベストアンサー獲得回数9

ポイント10pt

http://auctions.yahoo.co.jp/

Yahoo!������������

ゲームと現実の違いは、確かに擬似世界か現実世界かということになりますが、例えばゲーム上でお金や主人公のレベルが上がったとしても、それはあくまで先ほど提示した擬似世界だけで通じるものであって、現実にかえればそれらは全く価値の無い物となってしまいます。そしてゲームとは、人を、実際にそのゲームの中に自分が存在しているという感覚に錯覚させてしまうのです。そのため、ある一部のアキバの中には、現実世界(いわゆる社会)に出てうまくやっていけない人間が出てきています。そして、ゲーム上のリアリティによってゲーム上でしたコミュニケーションをすることができない状態になっている人がたくさんいると思います。よって、ゲームはある程度、夢中になる制限を欠けて、アル一線を越えない程度に楽しむものだと思います。そして、自分自身でゲームの世界のみではなく、現実もしっかり見つめることがたいせつであり、そして、そのゲームと現実の実際の違いを理解することが大切だと思う。

ゲームと現実の違いは、それぞれの責任の重さが大きく異なってくると思います。

id:masasan

「ゲームの中に自分が存在しているという感覚に錯覚させてしまう」理由はなんでしょうね。

「ある一部のアキバの中には」が良く分らないのですが、何かの間違いでしょうか。

「責任の重さが異なる」というのが一つポイントでしょうか。その部分、もう少し詳細に書いて欲しかったです。

2005/06/29 22:52:16
id:rohann No.19

回答回数97ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

非常に面白いテーマを投げていただき感謝いたします。

ゲームと現実の違いですが、先にあるようにゲームは現実に含まれているとの説が一番しっくりとくる気がしますね。要はゲームの世界は、そこを抜けた時に訪れる世界がはっきりとしている、つまりは現実に戻れるという保険がきいた世界です。その点現実は、死後の世界を誰もが知りえないという恐怖の中、与えられた環境で何をするか、いろいろと悩み考え、そこで初めて「死」とセットの「生きる」という選択肢を得られるわけです。ゲームの中での「死」は、いつまで経っても「無」でしかありません。いわゆる「ゲームオーバー」ですね。ゲームの中に「死」が存在しない以上、当然「生きる」という選択肢もありません。リアリティとは、人間が「死」というまったくの未知の選択肢から自分を遠ざけ、「生きる」という選択肢を選んだという不可解な事実とセットで訪れる感情です。


ゲームと現実が同じものとなる日がくるとすれば、それは人間が死後の世界を完璧に把握しきった時では無いでしょうか。もしも死後に今と同じような世界、仮に「チキュウ」とでもしておきましょう、の存在を知ったとしたら、我々はゲームのように生き、そしてゲームのような感情しか得られないはずです。

id:masasan

ゲームと現実の差、「死」と「生」が決定的な違いを生むのですね。そこからリアリティが説明できると。

死後の世界を把握するというのは、ちょっと分りません。

> ゲームのように生き

なんかたまーに、自分が今生きてるのはとてもリアルなゲームみたいに思えたりすることがあるんですよね。どうでもいいですけど。

2005/06/29 23:03:47
id:castle No.20

回答回数1011ベストアンサー獲得回数12

ポイント25pt

http://www.hatena.ne.jp/ダミー:detail]

あなたが誰かと現実として共有したものが現実です。

ゲームは、他の誰かとゲームとして価値判断を共有したからゲームなのであって、そのゲーム上でのコミュニケーションを現実として価値判断を共有したした時点で、現実としてのリアリティを獲得します。

ただ、やはりゲームをゲームにすぎないと認識している第三者がその現実に介入してきたら、その分感覚は曖昧化されます。

よって、自分の現実を守りたい人はリアリティの通じるレベルに自分の中で、あるいは対人関係を結ぶ際に制限をかけて自分の現実を防衛しようとします。

つまり、違いを決めるのは他人とあなたの認識にあるしょう。

id:masasan

興味深いです。

ちょっと具体的な想定をしないと、意味が抽象的過ぎるかもしれません。でもおそらく理解できたと思います。

TRPG(やったこと無いけど)で、各人の役割がしっかり果たされているか否かの違い、のようなものもイメージしました。

すこし違うかもしれないけれど、社会学や心理学ででてくる「看守と囚人」の模擬実験などをもってきて、現実の社会的役割を、個々人の認識を元に説明すると面白そう(だけど回答たまっているのでパス)。

社会システムを、各個人の認識の集合体と考えたとき、既存のものと違う認識(価値判断)を持った人が登場することによって現状のシステムのリアリティが減じられる、といったことなど上手く説明できるかも。

2005/06/29 23:43:46
id:standblue No.21

回答回数2ベストアンサー獲得回数0

ポイント15pt

少し神がかった事になりますが、ゲームと現実が同一になれるとしましょう。つまり現実の世界から完全な擬似世界をつくることになりますね、ですが完全な擬似世界とは具体的にどのような者でしょうか?Life Gameのような世界を化け学的に究極に進化され、DNAやニューロンのような生物の解明が終わって、次元や空間など物理学上の真理が解明して、この現実が何で構成されているかに回答がでたのならば、擬似世界を作る材料にはなるでしょう。しかし現実に擬似世界をつくるのは個人や集団の「技術」なので必ずなにかのバグが生じますね?

そこで僕の結論としては、擬似世界に起こりうるバグは存在することが明らかであるが、現実は現実の世界の誰かがそれをバグだと決め付けない限りバグの存在は透明である。

と、いうのはどうでしょうか


URLはダミーです

id:masasan

バグというのも面白いですね。

「ゲームにはバグがあるけど、現実にはバグがない」とか。

「バグの存在は透明」という言い回しは個人的なものでしょうか、ちょっと分りにくいです。

現実世界のコピーとしての擬似世界というのも面白い話題ですよね。

2005/06/29 23:49:53
id:JayMing No.22

回答回数26ベストアンサー獲得回数0

ポイント15pt

URLはダミーです。


質問者さんの意味する「ゲーム」が概念であり、現在、可能な技術を「全て含む」という前提であるならば、ゲームと現実の違いというのは存在しないのではないでしょうか。

開発費、採算性、トラフィック、入手可能なハードの性能、その他諸々、一切の制限が無くなるのですから。


現時点で現実に存在する「ゲームと現実の違い」は「その世界が内包するパラメータの数」ではないかと思います。ここがクリアされてしまうと、私達にその違いを知覚することは不可能でしょう。


20数年ほど前、音楽業界にCDが流通し始めた頃、「CDはアナログ盤(LP等)に比べて音が悪い」とか「CDを聞き続けていると音痴になる」などの流説がメディアに流れました。

曰く、「アナログ音源をデジタル化する際に、大量のデータを失っているから音が悪い」とか「デジタル化する際に失われるデータの関係上、音程が曖昧になる」などが論拠でした。

「元音楽屋、現プログラマ」から言わせて頂きますと、これらはまるっきりのデタラメではありません。ただ「それらデータの欠損がヒトに害なすほどの量ではない」ということなんですが。


現在のDVDに収録できる音声のデータは、CDとは比べ物になりません。容量のハナシではなく、デジタル化する際のデータの細かさ(パラメータ)が、です。

(但し、これは「規格」のハナシであって、現実に流通しているDVD全てがそのようになっているわけではありません)


さて、これと全く同じ構造を持つのがコンピュータのハナシです。

私達の手元にあるパソコンというモノはいわば民生機ですから、現時点で最高の性能のコンピュータと比べて、桁外れに低い性能しか有しておりません。すなわち、私達の部屋にあるコンピュータでは、表現出来得ることにかなりの制約がある、ということです。


が、概念的なハナシであれば、


・(例えば)視覚を失ったヒトの脳にコンピュータからの信号を直接送り、「見る」コトがすでに可能である

・ディズニーランドのスターツアーズのように、実際にはほとんど動いていないにも関わらず、動いていると体感させるアトラクションが数多くある

・自律的に「進化」していくプログラムがすでにある(研究室レベルですが)


といった事実がありますので、現実と差の無い(CDとアナログ盤の違いぐらいの)仮想を作り出すのは不可能ではないと思われます。あくまで概念的なハナシですが。


いわゆる「五感」を補う様々な技術は開発されつつありますし、(倫理の問題は別として)仮想世界で死んだら、現身をも殺すのは造作もないことでしょう。

「概念的なゲームと現実の違い」を述べるということ、それはあたかも禅問答のようになってしまうと思うのですが。

id:masasan

まず確認。

> 可能な技術を「全て含む」という前提

そういう質問と思ってもらってよいです。これがメインの質問条件です。

> 意味する「ゲーム」が概念

ゲームの概念についても、考察してもらってよいという別のサブ質問条件です。

ゲームの概念についてであり「概念的なゲーム」についてではありません、念のため。

「その世界が内包するパラメータの数」が無限か、有限かの違いあるかもしれません。

パラメータの捉え方もあるかもしれませんが、ゲームで無限のパラメータって難しそうです。

人工知能の「フレーム問題」を持ってくれば、人工知能が有効に働きうる擬似世界がゲームで人工知能が止まってしまう世界が現実、という設定もできるかもしれません。ルールのありなしってことに近いですが。

メインの質問条件に関しては、コンピュータには制約があるとのことかと思います。

視覚については、確か脳に繋がる神経に繋ぐんですよね。進化プログラムについては、GA(遺伝的アルゴリズム)ではなくそういうものがあるということなんでしょうか。

リンクいただいた「ゲーム理論」も面白いですよね。さすがノイマン先生です

2005/06/30 00:36:44
id:asemo No.23

回答回数10ベストアンサー獲得回数0

ポイント8pt

作者がいるかどうか。

ゲームは釈迦の手のひらの中。

メタレベルの神の存在が明確な世界がゲーム。

作り物の中であることが満足感充実感に与える影響は少なくないはず。

id:masasan

作者のあるなしというのは特徴的な差ですよね。

釈迦の手のひらのなかでも、釈迦には手のひらのなかで起こること全て認識できるわけじゃないですね。例えば、電話機を発明したベルは、電話機の話される内容や出来事までは認識できないと。

>作り物の中であることが満足感充実感に与える影響は少なくないはず。

意味がうまくとれません。

2005/06/30 00:42:04
id:hatch88 No.24

回答回数32ベストアンサー獲得回数0

ポイント5pt

ダミーです。


ゲームはスポーツ。

たとえばゲームがうまい人・野球がうまい人・サッカーがうまい人等・・・スポーツの括りとなんら変わらない。ただほかと違うのは、人が間を取り持たない(審判など)。 また、人と人との会話は文章などでするため、相手の目を見て会話ができない。これは人間の真の心理を伝え難いと感じる。

id:masasan

考察なんですかね。

申し訳ありありませんが、期待していたものと違います。

2005/06/30 00:45:15
id:plp No.25

回答回数15ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

http://www.lib.tokushima-u.ac.jp/

$BFAEgBg3XImB0?^=q4[(B

↑ダミーです。ゲームをTVゲーム等に限定した場合。↓

ゲームはヒトの価値観に基づいて作られたソースであり、変化する事はありません。変化しない代わりに、最初からでも途中からでもリプレイが可能です。簡単に言えば、後悔があれば好きなとこからやり直せます。また、ソースに書かれてさえいれば現実では不可能な事も可能となります。一方現実世界ではやり直したくてもできませんし、自身で改変可能なソースが無いので、物理法則を超える事もできません。

つまり、ゲームと現実の違いは、自身で変更可能なソースが存在するか否かではないでしょうか。

id:masasan

> 自身で変更可能なソースが存在するか否か

「自身」ではなく「作者」でしょうか。なるほど。

ルールの存在の有無ですね。

2005/06/30 00:48:03
id:mimibukuro No.26

回答回数1299ベストアンサー獲得回数3

ポイント20pt

http://dic.yahoo.co.jp/bin/dsearch?p=%A5%EA%A5%BB%A5%C3%A5%C8&am...

Yahoo!辞書 - すべての辞書 - リセット

ゲームと現実を分けるもの。

幾つか思い浮かびますので、一つずつ挙げていきたいと思います。


【リセットと命の価値】

他の方も多く挙げられていますので詳細な説明は不要でしょうが、やはり最も大きな違いはコレだと思います。ゲームの中では状況が悪かったりうまく進まなかったり気にくわなければ、すぐにリセットが出来る。しかし、現実の世界にはリセットというものは有りません。リセット、という言葉の意味は「動かす前の初めの状態に戻すこと」。人間をその状態に戻すことは出来ません。まずそこが大きな違いでしょう。死んだ者は生き返らないし、間違いを正すことは出来ても消すことは出来ない。

何度もリセットできることによりゲームの中の人間の命の価値は低い。そして、一度しかないからこそ、現実に生きる人間の命の価値は高いのです。


【リアリティ】

最近のゲームにおけるリアリティさ、には目を見張るものがあります。美しい映像、リアルな音声……現実の世界よりも鮮やかに表現されています。しかし、そこは匂いも痛みもない世界です。(いずれ技術が進めばそういったものの表現も可能になるかもしれませんが)

どれだけリアルに近づいても、ゲームの中の出来事や状況が私たちの生活や体に直接作用することはありません。そこにも「現実とゲーム」の大きな違い」があると思います。


【能力】

私の知る限り、人間は基本的に空を飛んだり魔法を使ったり火を操ったり…ということはできません。しかしそれはゲームの世界では可能になります。また、そういった非現実的なものではなくても、一般の人間には制限されているがゲームでは可能なコト、がこの世の中にはたくさんあります。

・ゾンビと戦う

・好き放題重火器を使う

・ダンジョンを探検する

などなど…。そういったコトが「可能である」「不可能である」という点もまた、大きな違いです。


【結末】

そして最後に、現実とゲームで大きく違うのは「結末」であると思います。※結末のないゲームを除く。

たいていの場合、ゲームに用意されているのはHAPPY ENDです。細かな分岐などにより様々なエンディングを見ることが可能だったりもしますが、基本的にはあらかじめ定められた結末をプレイヤーは見ることになります。

しかし、現実の世界のエンディング(=例えば死など)は様々。そこまでの生き方や環境などにより、その人が迎える死や結婚・就職などの「結末」は多彩であり、誰にも予測は付きません。これもまた大きな違いであると思います。

id:masasan

文章が、分りやすいです。ありがとうございます。

【結末】については、やはり自由度の差が出てきた結果でしょうか。

【能力】実際には、能力が拡大しているわけではないのですよね。ゲーム的な信号を受け付けているだけなのですが。イメージする力によって、現実世界をそこに投影した結果、能力が拡大されたような錯覚・イメージを得ることができるということでしょうか。

現実に戻った時実際は、拡大されない能力にがっくりしそうです。

2005/06/30 00:57:04
id:HKR0327 No.27

回答回数2ベストアンサー獲得回数0

ポイント25pt

http://game.goo.ne.jp/title/RPG/p1.html

ロールプレイング - goo ゲーム

URLはダミーです。


基本的にゲームの目的は「現実の自分から離れて別の自分を演じる」というロールプレイングにあると思います

(私はゲームというものはすべてロールプレイングであると言えると考えています)。

現実世界では自らの人生を充実させたり遺伝子を残したりするのが目的ですが、

その最終目的から離れ全くの別人になりきり別の目的を達成することを楽しむのがゲームです。

ロールプレイング性という観点から見るとネット内のコミュニケーションやMMOといった文化において

キャラクターは自分とは異なる別人でありながら、自分という人格から離れることはできない、ゲームと現実の中間的な存在と言えます。


ゲーム内の経済が現実と共存するようになれば、ゲームのロールプレイング性はさらに低くなり

ゲームと現実の差はますます少なくなっていくでしょう。

id:masasan

> ゲームと現実の中間的な存在

との指摘、面白いです。

> ゲーム内の経済が現実と共存

ずっと経済が現実と共存していたら、ゲーム内で生活していけそうです。

演じるって面白いです。

この人と話す時は、この言葉遣いこのキャラクター。

あの人と一緒に居る時は、こんな仕草とこんな行動。

役割や関係においてキャラを演じること現実にもあるかもしれません。では、演じていない自分はどんなでしょう。

2005/06/30 01:12:33
id:dat-ham No.28

回答回数27ベストアンサー獲得回数0

ポイント25pt

http://www.web110.com/cyberacademy/ch10.html

Cyber Academy �i�I�����C���Q�[���Ɩ@���j

現実は、今、自分が呼吸をし、肉体を存在させている世界である。ゲームは、その現実の自分が操る分身の自分を、存在させている作られた世界である。ゲームの中では、自分をそのまま投影させる事も出来るし、偽る事も出来る。なので、現実での常識を、その世界に持ち込められるし、逆に反する事も出来る。ゲームは一つのコミュニティなので、それはプレイする人達側の理性や常識、そのゲームの特色とも言えるルールなどによって善か悪かの基準が変わってくると思います。だから、ゲームの中にリアリティはあっても、全部が全部、現実ではないのです。また、食事(自分の口に食べ物を運ぶ)など、ゲームの中でフリは出来ても、現実の自分は空腹を満たす事が出来ないし、ゲームの中の物を現実で売って、生計を立てている人がいても、ゲームをツールとして使っていて、現実の自分の生活を支えているのに過ぎません。ゲームをする人は、現実に無い何かを求めており、熱中する度合の差は、その人がゲームから得られる物(精神的な物を含む)の価値に対する考えによるものだと思います。ゲームには、概念は持ち込めても、物質は持ち込めません。ゲームはデータ。データは人間が作る。ちなみに、コンピュータゲーム以外のゲームも、結局は役を演じているに過ぎないと思います。ボードゲームだって、鬼ごっこだって設定があるんです。現実=ゲームになる事は絶対有りません。そうなっている人がいるならば、「現実-現実の嫌な部分=(<)ゲーム」か、「現実=(<)ゲーム+ゲームが与えてくれる物」の等式(不等式)がその人の中で成り立っているのです。その人が、見ようとしない部分、それしか見ない部分があるのです。他の人と言いたい事が一緒になってしまいましたが、すみません。

id:masasan

ゲームでは偽ることもそのまま投影することもできる分身。ゲームの世界では、現実世界で言う常識も反常識も適用できる。その自由度が現実とは違う。

しかし、ゲームの中のものはデータであって物質は持ち込めないし、空腹は満たされない。例えゲームで得られた現実のお金も、それはツールとして得たものに過ぎない。

このような見方でしょうか。

例えば、映画や小説もその媒体は映像やテキストで、データとして保持することが出来ます。そしてその中にも擬似世界をイメージして再体験することができます。

それって何でしょうね。日常を過ごしているより、素敵な映画の中やフィーリングの合う小説の中に、より自分らしい(と思える)ものに出会えたり自分自身を発見できたりすることがあるように思えます。にも関わらずそれは、データであり仮想世界の中のものと割り切ってしまえるでしょうか。

仮に偽った自分であってもどこかで、現実世界に繋がっている気がします。

その境目あるいは繋がりの特質を理解したいですね。

不等式での表示されたものも、ユニークで面白いです。

「ゲーム」⇒「現実の特定の部分」

「現実」⇒「特定の部分以外の現実」に置き換えても成立しそうですね。

人間って、自分が進みたい現実を選んでいくことが可能だと思うのですが、それと同じ作用がゲームとそれ以外にも当然適用できる感じです。

リンク先でRMT(現実のお金との交換)について単語が出てきますが、最近オフィシャルなRMTサイト

http://www.watch.impress.co.jp/game/docs/20050421/soermt.htm

も出てきたようですね。経済性がよりリアルに接近するとどうなるか興味深いです。

2005/07/02 00:00:56
id:MrDK32 No.29

回答回数19ベストアンサー獲得回数0

ポイント15pt

http://www.yahoo.co.uk/

Yahoo! UK & Ireland

アドレスはダミーです。


/*------

現実世界は、一度しかない。何かと制限が多くて、細かなプレッシャーが掛かるコトが多い。

ゲームの世界では、一度しかない事も無く、制限は多いが、それをプレッシャーに感じる事も少ない。


場面場面で緊張感はあるのだろうが、結局、一度しかない事もないので、やりなおせる気楽さがあるので、現実世界よりもハードルは低い


ゲームは、製作会社がプレイヤー側に「楽しんで」もらうため、成功を治めやすい。


オンラインゲームなどでは、テストバージョンなどの先駆者になることによって、より成功を治めやすくなる。

現実世界は、常に時間が流れていることによって、始祖になれることは、まずない。

よって、時間さえあればトップの人間になれるゲーム(オンラインゲ-ム)の世界に価値観を見出しやすい。


しかしながら、オンラインゲームと現実世界は似ている部分が多いと思う。

「リアルタイムで人とコミュニケーションが出来る」コトが、一番の共通点であり大きなウェイトをしめる。

昨今の、オンラインゲームの台頭で、現実世界とゲームの世界の垣根がぼやけたりしているのは、その所為かと。

/*-------

id:masasan

現実の一回性がとても重要だと。

ふと思ったのですが、生まれ変わりとか信じると人生のプレッシャー軽くなるかもしれないですね。輪廻とかで繋がってると逆かもしれないですが。

社会の変革期にはチャンスも多いとか聞きますが、テストバージョンなどは世界ができる時なので凄くチャンスがありそうです。

現実のトップと、ゲームの中でのトップは客観的価値に差がありそうです。現実は一つだけれど、ゲームはいくらもあるし人口も違います。

>「リアルタイムで人とコミュニケーションが出来る」コト

これは、やはり大きいですよね。

その部分だけ抜き出して、ゲームか現実か判断してくださいと言ったらどうなるんだろう。

2005/07/02 00:22:54
id:degimaru No.30

回答回数3ベストアンサー獲得回数0

ポイント6pt

http://www.vector.co.jp/

Vector�F�\�t�g�E�F�A�E���C�u������PC�V���b�v

URLはダミーです。


ゲームと現実を簡単に分けるとしたら

「五感」だと思います。


五感で感じ取れるかどうかがキーじゃないですかね?


現実であれば、「視覚」「聴覚」「嗅覚」「味覚」「触覚」といった感覚が体感できるが、

ゲームでは「視覚」「聴覚」しか感じ取れないとおもいます。

今後はどうなるかわかりませんが

反対に全てが揃ってしまったら、

Matrixみたいな世界観になってしまうかもしれませんね。

id:masasan

言葉上、ゲームの「視覚」と現実の「視覚」は同じですが、実際同じ物ではないですよね。

ゲームパッドがブルブル震えたり、USBの匂い発生器みたいのをつければ「触覚」や「臭覚」は揃います。

考察として受けとれません。

2005/07/02 00:29:55
id:naoyann No.31

回答回数64ベストアンサー獲得回数1

ポイント10pt

http://d.hatena.ne.jp/naoyann/

シネマ・コミックレビュー

URLはダミーです。


質問者様が知っているかは、分かりませんが『HUNTER×HUNTER』にあるグリードアイランドというゲームをキーにして考えてみようと思います。


ああいう、ゲーム世界でも生活が成り立つ(画面を見るという概念ではなく、ゲームの中で生活をする)(もちろん、結婚や子作りなんかもできる)事がもし、できたのならば、どうなるのか深く考えてしまいます。


でも、これが可能になるとそもそも、なぜ生きるのか?という事が疑問になってきます。

「楽しく生きる為?」「未来の人たちに文化を伝える為?」

「楽しく生きる為」という考え方が主流になれば、むしろ、ゲーム世界で生活することはリゾートで生活するようなお金持ちの世界になるでしょう。

未来の人たちに文化を伝える為?」という考え方が主流になれば、ゲームに逃げた人間不適合者の世界になるでしょう。


だから、世間の流れによって、ゲームが現実よりも上回る事も下回る事も考えられます。


まぁ、ゲーム上で生活ができない今は、ゲーム上でいくら食べ物を食べても、ゲームやってる本人は腹は膨れないですからね。

id:masasan

人のことあまり言えないのですが。

>「楽しく生きる為?」「未来の人たちに文化を伝える為?」

の部分が何を意図しようとしているかや「…が主流になれば」の想定はゲームの中でのことか、現実でのことか、分りにくいです。

自分が何を伝えたいか相手に伝わりやすいように、また相手が間違えて受け取らないように、工夫が必要だと思います。

おそらく、「楽しく生きること」が現実の社会通念であれば、ゲーム世界での生活は人も羨む(みんなが求める)こととなり。「楽しく生きることでなく、現実での役割を果たすことが人生の目的」が現実の社会通念であれば、ゲーム世界での生活は重要ではなく(あるいは無意味)、人から蔑まれることになる。といった意図でしょうか。

周囲の価値観を切り口にした面白い想定だとは思うのですが、おしいですね。

『HUNTER×HUNTER』好きです。面白いですよね。

グリードアイランドは、実は現実だったという落ちもありましたが、あれが最後まで擬似世界だったらどうでしょう。

擬似世界と現実の差はどこにあったのでしょう。最後の部分「グリードアイランドは現実だった」があるか無いかの差でしょうか。

マンガという擬似世界のなかのゲームの話なのでちょっと複雑ですが。

2005/07/02 01:21:24
id:sttjapan No.32

回答回数147ベストアンサー獲得回数0

ポイント8pt

ゲームの主人公は他の誰かが作ったもの。最近は主人公について性別、年齢、顔その他の選択が出来るようですが、所詮他人の作ったものの組み合わせです。

それに対して現実の主人公は自分に他なりません。誰に作られたこともない自分です。


そしてゲームは何らかの形でやり直せることです。現実はやり直しがききません。例えばネットゲームで死んでしまっても復活が出来ますが、ネット上で付き合っていた人(自分はこんなことがあると聞いて驚きましたが)と分かれたらやり直しは効きません。戦いで死んでしまったことは「ゲーム」ですが、別れたことは「現実」です。

id:masasan

> 誰に作られたこともない自分です。

親からの遺伝子を元に作られていますかね。ゲームの部品やパターンより遥かに複雑ですね。洋服なんかも無限のパターンの中から選べそうです。

先日TV番組で、ゲーム内で恋愛の進展的なことが放映されていたようです。ゲーム上でのお付き合いもありえるかもしれませんね。

それは、ゲームなんでしょうか現実なんでしょうか。

> 戦いで死んでしまったことは「ゲーム」ですが、別れたことは「現実」です。

ということからはゲーム上だけれど、現実ということになるのでしょうか。

プログラム上のイベントは「ゲーム」で、対人的イベントは「現実」ということですかね。

考察ですので、もう少し踏み込んで書いて欲しいです。

2005/07/02 01:34:54
id:korox2 No.33

回答回数81ベストアンサー獲得回数0

ポイント50pt

http://newsblog.blog3.fc2.com/blog-entry-157.html

ページが見つかりません。

「ゲーム」と「現実」の違い


これは 僕にとっては簡潔です。


それを当人がゲームとして捉えてるか現実として捉えているかの差ではないでしょうか。


オンラインでゲームをして人と関わり感情が動く。


これは紛れもなく現実です。


ですが その感情の動きをゲームの中だけのモノとして切り替えられる限り やはりそれはゲームです。


その切り替えが出来ない場合は 例えゲームであったとしても現実の出来事となります。


その反対の場合もあります。


現実の相手と関わっていても 相手の感情を共有しない、ただ反応を楽しんでいるだけの状態は 現実の世界でゲームをしているとも言えるのではないでしょうか。


現実でゲームをするというのは 一線を引いて波風を立てない処世術でもある反面、想像力が欠如し 相手の痛みを共有できずに相手を傷つけてしまうという側面もあります。


ゲームの世界で現実の人間関係を経験する人間もいれば ゲームはゲームとして捉える人間もいる。


それがゲームであるか現実であるかを決定するのは 本人次第だと考えています。


通常 現実の人間関係は 空気の振動により言葉を伝え 光の反射・吸収によって相手の姿を映し出し、脳で処理して関係を構築します。


ゲーム(オンライン)の場合は それがネット回線でありMMOなどのシステムによって媒介されています。


そして 現実とゲームの違いは お互いが出会うシチュエーションを 実際の生活の場からどれだけの距離を離せるのかという差でもあります。


現実でも 少し努力をすれば 外観を替えまるっきり違う場所で出会うことが出来ます。


しかし ゲームならばその手間と労力を省くことが出来ます。


そしてその手間と労力分、どちらの方を重要視するかというのも 現実とゲームの違いになるのではないでしょうか。


より手間をかけた方がその人間にとっての現実といえるかもしれません。


ゲームと現実の差は 自らの意志で終了させることが出来るか否かという違いがあると考えられます。


たとえ ゲームであっても 自分で終了出来ない状況や心理状態であるならば それは現実です。


実際の生活に支障をきたすでしょうし 現実の人間関係にも影響が及ぶでしょう。


そうなれば それはもはやゲームではありえません。


反対に 現実の人間でゲームを行った場合 本人は終わらせることが可能でも それに巻き込まれた人間はそうではありません。


きちんと 終わらせることが出来なくなった時点でゲームではなくなってしまいます。


現実の世界でゲームを行った場合、自ら終了させることが出来なくなって他人の手を借りなければならなくなりトラブルになることが多いのではないでしょうか。

(例えば未成年者相手に恋愛シュミレーションゲームをしようとして誘拐した場合など その後始末のツケは被害者が支払わされ、司法の手を借りることになる)


よく ゲームと犯罪傾向の関係が論じられますが こういったことを指してるのではないかと考えています。


ゲームとは娯楽であり 制限された時間と空間(場所)に於いて行われ、自らの意志で完全に終了させることが出来るもの。


たとえ どれほどリアリティがあろうとも 完全に区切ることが出来るかぎり それはゲームといえます。


しかし そのリアリティのあまり ゲームであるとの感覚が薄れ より多くの手間や投資を行った結果 自分にとっての価値が増大し、自ら制限できず 現実のコミュニケーション(人間関係構築)に支障を来すようになった場合 そのゲームはその人にとってのみ 現実であると言えるでしょう。

id:masasan

> それを当人がゲームとして捉えてるか現実として捉えているかの差ではないでしょうか。

感情の切り替えが可能か否かということで、線引きが明確になっていますね。それは舞台が、現実であってもゲームであっても適用できるのですね。

出来事との距離というようにも換言できるのかもしれません。嬉しかったり傷ついたりすることがあるのが現実、そのような出来事があっても簡単に切り替えられるのはゲーム。

生の物理的情報を直接、人間の優れた各インターフェイスに注ぐのと、データに還元できる制約された情報によって媒介される差がありますね。そういった外界の情報や記号を脳で処理する部分は共通だと思います。

> 手間をかけたほうがその人間にとっての現実といえるかもしれません。

人間の容貌や生活も、かなりの手間をかけて作られたものといえますかね。短期的にゲームに多大な労力を費やすと、その期間内は現実感が大きくなりそうですが、ひとたび生活の場にもどれば費やされた労力は一般的にはそちらの手間の方が大きいですよね。だから、そちらの方が現実になるのかなと。

> たとえ ゲームであっても 自分で終了出来ない状況や心理状態であるならば それは現実です。

これも面白い観点です。

逆を考えると、現実であってもある種区切り(終了)をつけられる心理状況ならゲーム化してしまえる。いつでも終われるといった恋愛ゲーム的感覚の相手なら、自分は一人相撲な感じになりかねないですね。

> ゲームと犯罪傾向

この部分だけ、その意味をどうとっていいのかちょっと分りませんでした。

最後まで一貫していて、面白い内容でしたありがとうございます。

2005/07/02 02:27:47
id:coolio No.34

回答回数4ベストアンサー獲得回数0

ポイント6pt

URLはダミーです。

「ゲーム」と「現実」の違い…。

分かりやすい所だと『感覚』ですかねぇ…。

例えば現実で運動神経が良い人がスポーツのゲームをやった時、必ずしも上手いとは限らない。

これは『現実の運動』を全身の神経や筋肉、骨に伝わる振動など、体全体を使って何百、何千回と反復運動する事で脳に記憶させた人と、『ゲーム内(バーチャル)の運動』を視覚と指先の神経など限られた器官だけを使って脳に記憶させた人の違い……。


この回答はゲームを『バーチャルな物』に限定した物ですが、気の合う仲間で集まって『野球』や『サッカー』等のスポーツも『ゲーム』として定義すると、正直、説明できませんです。

id:masasan

回答者さんの思う、違いを示してください。

と質問しているわけではないんです。

ある程度しっかりした内容のものを期待しているんです。

2005/07/02 02:32:37
id:BeyonBeyond No.35

回答回数1ベストアンサー獲得回数0

ポイント40pt

URLはダミーです。

結論から言うと今の技術で作られたゲームには、現実との区別がほとんど無いと思えます。

ただ一点を除いては。


ゲームの中の代表としてMMOを取り上げます。

MMOは特に中毒性が強いといわれています。

マスコミではあまり取り上げられてはいませんが、

ネット上ではそこかしこに中毒者のことを「廃人」と呼んでいる傾向もあります。

ネットゲーム無しには生きていけないような生活。

その辺りを考えると、ちょっとだけゲームと現実の違いが分かるかもしれません。


この中毒性の元となるようなものは、

実はMMOに限らずゲームには付き物のリスクであると考えられます。

ちょっと思いつくだけの要素を列挙します。

例えば、自分の操作するキャラクターを極限まで成長させるたり、

世界中の全部のアイテムを集めようとするやりこみ要素。

いわゆる現実では起こりえないことや世界が

ゲーム内で広がっており、

そこに自分がもぐりこんだ感じがするという架空性・平行世界感(バーチャルリアリティ)。

あるいは他者との対戦や協力プレイといった、

「ゲームのルールに則ったコミュニケーション」要素。

その他ゲーム製作会社が利益を得るために施した、

ゲームの価値を高める要素。

(そうしなければユーザーが増えませんよね)

これらの要素が考えられます。


ここでMMO中毒者を考察してみます。

これらゲームの中毒性リスク、あるいは逆に魅力となりうるべき物に取り付かれたのが彼らでしょう。

彼らは現実とゲームをどのように捉えているのか?

彼らにとって現実とはどの部分を指すのか?

masasanの問いにあったキーワードを順に当てはめていきます。


「価値」…ゲーム内のアイテムは人気MMOであれば現金取引が可能です。

運営会社が禁止していたとしても、取り締まるのは困難でしょう。

現金取引が可能であれば、ゲーム内で稼いだ分は「いわゆる現実」に反映される。

食べ物を買い、その他必要品を買って生活できるということです。

また、自分が努力して得たものは、

形の無い単なるアイテムでも執着が沸くものと考えられます。

ゲーム世界においての功名心からの名誉等、価値を生み出す元は元来人間が持っている欲であり、

そこにゲームと現実の区別は無いと思われます。


「感覚」…これは前述の「価値観」とも繋がります。

人との競争に勝ったときの優越感や快感。

努力して何とかアイテムを手に入れた時の達成感。

その感覚自体は紛れも無く、プレイヤーが感じているものであり限りなく本物に近いものと考えられます。


「コミュニケーション」…ゲームのルール内において可能なものです。今のMMOではチャット+αがコミュニケーション手段の限界でしょうか?

+αとしたのは、キャラクターの動作による表情表現等のゲーム要素からです。

この辺りから「制限」や「リアリティ」というものが問題になってきます。

ずっと人とのコミュニケーションがチャットだけだとすると、通常の健康的な人はとても耐えられないと思います。つまり、満足できない。と向かい声を出して会話をする。

中毒者の場合は何故かは分かりませんが、

その生活をずっと続けています。


一例ですが、他者からゲームを止めるようにたしなめられたある中毒者は、

「自分にとってゲームの世界が現実なんだ」ということを言いました。

すでにゲームが自分の存在意義であり、

欲求も全てそこで満たされているため、

健康な人の感じる「現実」には全く興味を示さなくなってしまったようです。


以上からゲームと現実の違いについてまとめます。

ゲームにはある程度の自由が存在し、

その自由をおもちゃのようにいじることで人は楽しみを覚えます。

その自由度は、現在の技術でも十分大きく中毒者を出してしまうほどです。

ただし、健康な人がなぜ「現実とゲーム」を区別するかといえば、

僕はゲームの「制限」に理由があると考えます。

ゲームの自由は限りあるものということです。

その制限に満足しきってしまった場合、

ゲームと現実は一緒になり区別ができなくなります。

例えばゲームの映し出す川の流れがうそっぽく感じて「リアリティ」に不満を覚えれば、

人は現実の川を見たくなるでしょう。

制限に満足しないことが、現実を求める動機となりうると考えます。


ゲームは現実の要素を一部だけ切り出したものである。

それは意図したかどうかは分からないが、

楽しみだけでなく人の欲といったものも存分に切り取り再現している。

故にゲームで人が感じるものは劣化してはいるが現実に作用する。

ゲームの世界は狭い世界ではあるが、

それに満足するならば、そこが現実である。

その場合ゲームと現実は同一である。


通常、人はその狭い枠組みに満足しないため、

ゲームと現実を同一視しないで区別しようとする。

そこが、冒頭に書いた数少ない区別をつけられる一点と考えられます。


拙くて、長文ではありますが、いかがでしょうか?

id:masasan

> ゲームの自由は限りあるものということです。

これが、区別をつけられる一点とのことですね。

> ゲームの世界は狭い世界ではあるが、それに満足するならば、そこが現実である。

本人の、認識の持ち方により違うとのこと。

健康な人にとっては、その制限が不自然で不自由に思われ、いわゆる中毒者なる人たちはそれを不自由とも不自然ともせずに受け入れることができる。

ゲームであることをきちんと認識しながら、不自然さを受け入れるというものアリかなという気はします。いや、結局は程度の問題になるのかな。

> 楽しみだけでなく人の欲といったものも存分に切り取り再現している。

面白いですね。

ある種の限定が逆に、意味を明確にしたり想像力を生むことがあると思うんです。漠然としていますが、実写とアニメーションの映像の違いのような、、ある種可能性があるのかなと。

きちんと順を追って説明いただいたので、とても分かりやすかったです。

ありがとうございました。> ゲームの自由は限りあるものということです。

これが、区別をつけられる一点とのことですね。

> ゲームの世界は狭い世界ではあるが、それに満足するならば、そこが現実である。

本人の、認識の持ち方により違うとのこと。

健康な人にとっては、その制限が不自然で不自由に思われ、いわゆる中毒者なる人たちはそれを不自由とも不自然ともせずに受け入れることができる。

ゲームであることをきちんと認識しながら、不自然さを受け入れるというものアリかなという気はします。いや、結局は程度の問題になるのかな。

> 楽しみだけでなく人の欲といったものも存分に切り取り再現している。

面白いですね。

ある種の限定が逆に、意味を明確にしたり想像力を生むことがあると思うんです。漠然としていますが、実写とアニメーションの映像の違いのような、、ある種可能性があるのかなと。

きちんと順を追って説明いただいたので、とても分かりやすかったです。

ありがとうございました。

2005/07/03 18:16:53
id:kiku1511 No.36

回答回数8ベストアンサー獲得回数0

ポイント6pt

http://tv.yahoo.co.jp/

Yahoo!�ƥ���

ゲームと現実の違い・・・


それはやっぱり、行動範囲だと思います。

ゲームには作者がいるから、作者が作ったところまでしか行動出来ません。

ゲームも前に比べて自由度が高い物が多くなってきましたが、いくら自由度が高くなったからと言っても、現実のように何でも出来るわけじゃないです。

ゲームにはマップの端っこがあります。

しかし現実には地球には端っこがあっても、まだ誰も行った事がない星があるし、無限に続く宇宙もあります。(無限に続くかはわからないですが 笑)

まぁこんなところじゃないでしょうか?

id:masasan

行動範囲、自由度。

マップの端っこは乱数発生させればなくしたりすることは出来そうですね。他の人やイベントがある程度ないとつまらないと思いますが。

2005/07/03 18:21:01
id:kentiyan No.37

回答回数5ベストアンサー獲得回数0

ポイント8pt

http://ground2.moo.jp/srwog2/

�X�[�p�[���{�b�g�����@�I���W�i���W�F�l���[�V�����i�X�p���{ OG2�j�U��

URLはダミーです。

現実とゲームはゲームは自己満足じゃないでしょうか?ただ、それで現実でもゲームようにうまくいかないという人が犯罪を起こすって世間の見方はおかしいと思いますけどね・・・

現実はちゃんと結果を残せば必ずなにか残りますが・・・ゲ-ムは結果は数値ででるので結局は自己満足ですが・・・ゲームはゲームで

しばらくたって思い出に残りますよね・・・

あの時アイツのこのゲームやってたなあって

感じで現実はなかなか思い通りには行かない

ゲームは何度でもやり直しがきく・・・

ただ現実はやれる事が限られているけど

自分がその時やった結果で他の人達にも

なにかを影響を与えられる・・・事ができる

自己満足とは恐らくゲームは精神的に

慰めで・・・気分転換とかそんな感じじゃないでしょうか?そして現実は、自分探してそれに

立ち向かって、日々苦悩してそして結果が出た

時にゲーム以上に達成感がリアルに感じられるのが現実じゃないでしょうか?ゲームはゲームでエンタティナーで日々感動もあるし色々影響

もあるのも事実です。だからその現実とゲームを違いをうまく使い分けるともっと人生楽しく

生きれるじゃないでしょうか?

id:masasan

なんか、つらつらと考えてもらった感じが出ていますね。

ゲームは、自己満足や慰め、気分転換で、達成感は現実には及ばない。

だけれど、うまく使い分けるとより楽しく生きられる。

ふむ。

2005/07/03 18:33:18
id:eityan No.38

回答回数477ベストアンサー獲得回数5

ポイント8pt

↑ダミーです。


戦争ゲームでいくら人を殺しても、

リセットすれば復活するのがゲームです。

現実では二度と戻ってくることはありません。

ゲームで人を殺す感覚を覚えても、

現実では感覚はありません。(おこりません。)

このように、ゲームには現実にはできない感覚ができるのではないのかと思います。

それがいい意味でも悪い意味でもあります。

id:masasan

> ゲームには現実にはできない感覚ができる

ふむ。

2005/07/03 18:35:00
id:ohiru_s No.39

回答回数1ベストアンサー獲得回数0

ポイント40pt

URLはダミーです。


こんにちわ。

これまでの解答を拝見しつつ、解答させて頂くので、

その分、私自身が0から考えた考察ではない事をご理解ください。


これまでの解答からすると、簡単な問題でありつつ、相当に難しい問題になってくるのではないかと

考えています。

そもそも、「ゲームとは何か」という概念的なところから、話を始めなければならないのでしょうか。

MMOを例の一つとして取り上げられていらっしゃいますが、MMOは前提として、「ゲーム」です。

何故なら、「ゲーム」会社がゲームとして市場へ出しているからです。

プレイヤーはプレイをスタートする以前の段階で、その仮想現実を「ゲーム」として、登録を行い、

そして「ゲーム」をスタートさせます。

即ち、この段階では、それは「ゲーム」です。

それが例えば、現実に相当する価値や、あるいは感覚、コミュニケーション、リアリティ、

制限を含んでいるとしても、それは単なるその「ゲーム」の規約でしかなく、プレイヤーは読む、

読まないにかかわらず、その規約に同意し、「ゲーム」をプレイしているという前提が存在します。

恐らく、これがこれまでの解答で述べられた「認識」という前提ではないでしょうか。

例えば、ゲーム中で現実に死ぬ事が規約の述べられていたとすれば、プレイヤーは死から逃れられません。

ただ、そういうルールが存在するだけです。

前提として、「ゲーム」というプログラムをプレイしているという、認識の上に立ってしまえば、

その他は他の人間が作り上げたルール、「制約」に基づき、「プレイ」しているに過ぎません。

「ゲーム」というものを単なる前提として捉えたすれば、これは簡単な問題ではないかと思います。

「ゲーム」ではなく、「現実」であるにもかかわらず、強力な催眠術や洗脳などによって、

「現実」を「ゲーム」と誤認識させてしまえば、それは当人にとっては「ゲーム」であると

意識されてしまうでしょう。

価値や感覚などは、いわゆる前提であって、それを行う以前で、

我々が共通認識として有する幻想に過ぎないのではないか、と思います。


「ゲーム」の前提条件を、何らかの形で規約を定型化させた共通認識として有される幻想――

仮想現実とするのではあれば、

「現実」は「ゲームではない」何らかの形で規約を定型化させた共通認識として有される幻想と

なるのでしょうか。

そもそも、価値は社会を前提とした仮想空間ですし、感覚やコミュニケーション、リアリティは

それぞれの個々人が脳内で仮想的に築かれた電気信号に過ぎません。

あるいは将来的には、この信号を直にやりとりし、本当の意味で意識を共有できる時代が来るのかも

しれませんねー。

そこまで行ってしまうと、「ゲーム」である仮想現実と、「現実」である現実との差異はそれほど

ないように思います。


ただ、ここまで話を広げてしまうと、問いとして置かれている、「ゲーム」と「現実」の違いを

考察する、という主旨から反してしまっているようにも思います。


人は自身が想像する形を現実にしようとして、技術を生み出します。

想像の世界と現実の差異を技術が埋めていくものなのであれば、

「ゲーム」とは、現実に近しいものとして存在し得る、しかし、娯楽として人を楽しませる為に、

ある一定の規約を有した、「ゲーム」という共通認識によって築かれた前提ではないかと

考えたりします。


具体的な例がなく、すいません。

id:masasan

こんにちは、良回答ありがとうございます。

> 即ち、この段階では、それは「ゲーム」です。

まず、会社や登録といった手続き的な点でゲームであることを確かめ。

> 「ゲーム」というものを単なる前提として捉えたすれば、これは簡単な問題ではないかと思います。

「ルール」を「ゲーム」と結び付けられた方もいましたが、「前提としてのゲーム」言い換えれば「ゲームとは前提である」という、捉え方を一つ示す。(この部分は、受け取り方間違っているかも)

> 「現実」を「ゲーム」と誤認識させてしまえば、それは当人にとっては「ゲーム」であると

逆バージョン(催眠術で「ゲーム」の中の世界を現実と誤認識させた人という想定)も興味深いです。

どんな差が出るんだろう。今度考えて見ます。

> 価値や感覚などは、いわゆる前提であって、それを行う以前で、

さらに踏み込んで、「価値や感覚」が前提であり、共通認識としての幻想ではないかという疑いも、興味深い問いです。

> そもそも、価値は社会を前提とした仮想空間ですし、感覚やコミュニケーション、リアリティはそれぞれの個々人が脳内で仮想的に築かれた電気信号に過ぎません。

社会的価値を一つの前提として捉えるえるのは共感できます。でも、全ての価値が社会を前提としているわけではないですよね。個人や集団特有のもの、あるいは観点・視点や目的を前提とするものがありますよね。「ある集団特有の仮想空間」「ある視点によって見えてくる仮想空間」というのは面白いですね。

感覚を物理的信号だけに還元してしまうことに拒否感を抱く人も多いと思います。私はそういうのもいける立場です、がPCの計算はbitに還元できるといったからといってPCで再生する音や映像を認識したことにならないので、コミュニケーション、リアリティの構造的な部分に(実感できる部分にも)興味があります。

ちなみに最近の研究からしても、単なる電気信号だけには還元できないのかなーという感想もあります(グリア-ニューロン回路網など調べてみてください)。

> ある一定の規約を有した、「ゲーム」という共通認識によって築かれた前提という所に落ち着くまでいくつか寄り道もあり楽しかったです。

2005/07/03 21:01:47
id:reiroudou No.40

回答回数1ベストアンサー獲得回数0

ポイント10pt

http://www.ai-gakkai.or.jp/jsai/

$B?M9)CNG=3X2q(B (The Japanese Society for Artificial Intelligence)

「ゲーム」と「現実」の違いは「生命」を生み出すことではないでしょうか?


親の遺伝情報や環境から予想される子供を作れても、その子供は「生命」ではありえません。

まあ、「生命]の定義や、将来、人間と見分けのつかないAIや人間工場ができれば、また、変わってくるかもしれませんが…

id:masasan

なるほど、ゲームの中で子供を生んでも、もう一人の新規のプレイヤーとはならないですね。

命を生み出すという重要なイベントがしっかりと作り出せないですね。

2005/07/03 21:06:13
id:taky No.41

回答回数9ベストアンサー獲得回数0

ポイント5pt

http://www6.ocn.ne.jp/~katoyuu/

カトゆー家断絶

(↑ダミーURL)

端的にいえば、解像度・内包するエレメント数の差。

最大解像度を持つゲームを、現実と定義したのでは?

id:masasan

そうですか。

2005/07/03 21:06:50
id:sesuna No.42

回答回数6ベストアンサー獲得回数0

ポイント10pt

URLは適当ですが、内容と関係あるかもしれません。


現在の現実とゲーム上の違いが情報(外部から入るすべてのもの、感覚)量の多さで、技術の向上によってその差は小さくなってきている。

ゲーム中、キャラクターのダメージは現実世界の肉体に影響ないが、シミュレータにおいては、仮想現実内のダメージを電気ショックで現実世界の肉体に反映できるようになったことが例に挙げられる。

将来的にはゲーム内でも現実と同じ量の情報を得ることが出来るだろう。

そうなった時、仮想空間を現実とするか、現実を現実とするかは本人の判断によるのではないだろうか。

id:masasan

身体的(触覚的)レスポンスの有り無しへの言及ですね。

====

そろそろ閉めたいと思います。

大体同じことを主張するにしても、その表現の仕方の違いで捉え方の差があるような気もしました。

色々意見をいただいて、認識が深まりました。

ありがとうございました。

2005/07/03 21:17:43

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