「社会のために」などと言いますが、人はなぜ他人の為に生きなければならないのでしょうか。一方、そのことに対して幸せを感じることもあります。その幸せの理由や「他人のために」の意義を教えて下さい。

自分は哲学や心理学に対してズブの素人なので専門的な回答はツライつらいんですが、客観的な回答をお願いします。できれば秩序や経済的な合理性などではなく、「哲学っぽい」回答を期待しています。素人臭くてすみません・・・

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回答30件)

id:abc_o_s No.1

回答回数83ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

そんなのは関係ない。自分が一番でよい。自分が一番は当たり前。自己中心的ではない。だがその次には人を考えなくてはいけない。迷惑をかけないで生きることが社会のためだからかもしれません。親孝行は大切に!

id:shun6066

ありがとうございます。

確かに自分の為に世界はあるのだと思いますが、その「自分の為に」を実現するための「他人の為に」のあり方、その理由を詳しく知りたいと思っています。「迷惑をかけないで生きることが社会のため」と回答して頂きましたがその「社会のため」の理由を知りたいと思っています。

2004/10/06 00:35:15
id:TomCat No.2

回答回数5402ベストアンサー獲得回数215

ポイント12pt

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/index.html

法政大学大原社研_日本労働年鑑【総合案内】

ご紹介したページは、

法政大学大原社会問題研究所が刊行し続けている

「日本労働年鑑」のインデックスです。

ここには、まさに「社会のために」

活動し続けてきた人々の足跡がおさめられています。

「社会のために」「他人のために」。

それはとどのつまり、

「歴史に名を残したい」

という欲求から発するものではないでしょうか。

歴史に記される社会運動だけでなく、

私達の日常においても、

親は子のために、社員は会社のために、

学生は学校やクラスのために、

何かしら自分につながる人のために心をくだきます。

親は子に未来を託し、

社員は業績を会社に残し、

あるいはクラスのために頑張る学生は

友の心の中に自分を強く印象づけます。

自分の存在を、そうして他人の中に刻みつけていくわけです。

そうして自分の生きる証をしるし続けていく。

ある意味、子孫を残すという生物の本能と似たような感情。

大袈裟に歴史に名を残したいとまでは考えなくとも、

どこかに自分の存在意義の評価を刻みつけておきたいというそんな欲求が、

社会のため、他人のために何かをしたいという気持ちに

人を駆り立てていくのだろうと思いますが、

どんなもんでしょうか。

 

id:shun6066

「存在意義の評価を刻みつけておきたいというそんな欲求」、納得です。ただ、それだけなのかな、と思ったりもします。その欲求を満足させる目的だけならば、他人の為に生きた時の充足感みたいなものは得られないような気がします。

2004/10/06 00:44:17
id:ys0713 No.3

回答回数506ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

http://usagi.co.jp/

有限会社インフォメーション・ネット

URLはダミーです。

僕もそのような分野は完全な素人ですが自分なりに考えてみました。僕もよく「他人のため」と同様な言葉をよく耳にします。

しかしこの言葉の裏のどこかには「自分自身のため」という言葉が隠されているような気がします。例えば人に優しくできない人間に対してその周りの人間がその人に対し様々面で尽くすことができるでしょうか?僕はできないと思います。要は自分が他人にした行動が最終的には自分自身に降りかかってくるという考え方が「社会のため」「他人のため」の言葉に含まれているのではないかと僕は考えます。少々分かりづらいかもしれませんが、ご了承ください。また長々とすいません。

id:shun6066

自分の為の他人の為、という考え方分かります。僕もそう思います。ただ、他人のことをしようと思っている時にそこには「自分の為」を考えている自分はいないような気がします。何かもっと自分の存在を確かにする根源的な何かがあるような気もします。

2004/10/06 00:58:07
id:ariho No.4

回答回数697ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

http://www.searchdesk.com/

検索デスク - SearchDesk - スタートページ

家から一歩も出ないという状況(赤ちゃんから引きこもり、病気の人、介護を受けている人などなど)では当てはまらない場合もありますが、生きている限り、必ず他者と接触する場面があります。

狭い範囲からいうと家族、向こう三軒両隣、自治体、住んでる国などがあります。この他に所属する組織、人間関係のネットワークなどがあります。

アメリカの学者が調査したところ、人間のリンクではわずか間に6人いれば知ずべての人間に到達できるそうです。このことからいえることは我々はコンピュータなど比ではない、すばらしいネットワークを持ってと思います。

これを進めていけば戦争や貧困を無くそういった、他者を思いやる世界に変えていけると思うのですが...

id:reigen No.5

回答回数70ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

他人の為になることをするといつか自分に返ってきます。そしてその事実を本能が知っているから幸せな気分になれるのです。

みたいなことを誰かが言っていました。

id:shun6066

そうですよね・・・本能で幸せを感じるからこそ

本能で動くんですよね。納得。

2004/10/06 01:06:05
id:taepoo No.6

回答回数94ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

http://www.jozeetora.com/index_f.html

--ジョゼと虎と魚たち--

「自分が他人の為に」というより、自分が周りによって生かされている、

ということなのだと思います。

幸せを感じること・・・自分がしたことによって、

相手が喜んでいるのを見るのが幸せなのだと思います。

相手が喜んでいるのを見たいから、良いことをしようと思う。

自分がしてもらっている様々な恩恵のお返しで、

ごく自然に「他人のため」と言われることをしているのでは

ないかと思います。

それは、根本に「お互いさま」という概念があるのでは。

ご希望の回答と違っていたら申し訳ありません。

id:shun6066

いえいえ、丁寧な回答ありがとうございます。

更に踏み込んで知りたいのは、相手が喜んでいるのを見るのがなぜ僕たちは幸せだと感じるのかとか考えてしまいます。

2004/10/06 01:19:56
id:abian No.7

回答回数112ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

「社会のために」「他人のために」と言われて、そのままそれができたとしたら、不気味です。ロボットです。

それはシッダールタのように「悟り」を開かなければできないことです。

でも、実は日々の日常の中で「悟り」の境地に至ると言う瞬間があります。きっとあなたにもあると思うのです。

それはまず自分自身に「愛」を感じた時・・・つらい体験を乗り越えた時など、突然ひらめくことがあると思うんです。私はほんとに頑張った!なんていとしいのだろう!と自分自身を心底慈しむことができた時に、ふっと目にしたほかの人の以前の自分と似通った、いやそれ以上に苦しんでいるさまをみて、力になってあげたい〜(^-^)その苦しみをともに分かち合ってあげたい..と思ったりすることが普通になります。

自分を愛せるようになってから、初めて人も愛せるわけですから、いきなり他人から愛すなんてできませんよね。

どんな自分も許し愛していこうと言う覚悟の元にまず身近な人から大事にしていく、そうして他人に社会に というふうに、自分の愛は広がっていくとすると、それってかなり感動的なことだと思うのです。愛は相手に達した時に相手からも放出されるので、お互いの心の中がどす黒い灰色の雨雲に覆われていても、その瞬間に歓喜の虹がかかりますから。その感動はこの世で最高のものじゃないでしょうか?

id:shun6066

苦しみ、愛をともに分かち合ってたいんですよね。

2004/10/06 01:27:22
id:san-kaku No.8

回答回数19ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

http://www.hatena.ne.jp/1096988233#

「社会のために」などと言いますが、人はなぜ他人の為に生きなければならないのでしょうか。一方、そのことに対して幸せを感じることもあります。その幸せの理由や「他人の.. - 人力検索はてな

ダミー

そもそも、他人のために生きる「必要」はないと思います。けれども、人と何らかの関わりが多少なりともある限りは、生きているだけで誰かの為になっているはずです。(買い物だろうと、自給自足していても、ネット上でも、たまに人目に触れるだけでも。)

積極的に人助けをすることによって得られる充足感というのはつまり、”他人の役に立つ=自分は、自分以外の人間のためにも存在する価値があると感じられる”ということでしょう。具体的には、他人を助けると感謝という形の愛をもらえる、というような感覚ですかね。

id:shun6066

確かに「必要」ではないですよね。選択するのは自分ですから。

2004/10/06 01:33:32
id:kinop No.9

回答回数325ベストアンサー獲得回数2

ポイント12pt

http://www.sound.jp/

@sound.jp - 無料レンタルサーバー

URLダミーです。

私の考えで申し訳ありません。こう考えています。

「人のために生きなければならない」というmust系で

考えると辛いと思います。

「社会のために」というのも

近視眼的にみる時は「タテマエ」上のキーワードに近いかなと思っています。

まず、自分ありきじゃないですか。順序逆になりますけれど、人のためにすることでえられるその幸せの理由や「他人のために」の意義からになりますが

友達と話をしていて、自分が相手にジョークを飛ばして笑ってもらえると

嬉しい時はありませんか?私はあります。

これは自分が嬉しいからやっていることでもあり、人のためでもあると

思います。ある意味で、楽しいことで、自分の人生を有意義にする一つの要素

だと思います。拡張すれば、「人のために(も)生きている」といえると思います。

また、家族ができた場合、奥さんや、子供、親のために何かできれば

本能的に幸せを感じるようにできています。家族以外でも意識を拡張することで

同様に、意義のあることだと思います。

本題です。私の思うところは

「まず自己ありき」だと考えますが、

衣食住、生きていくために、原始の人間は狩猟や釣りなどをして

暮らしてきたと聞きます。それは本当にその日暮しで、いつ食えなくなるか分かりません。

そのために、通貨が考案され、自分の代わりに衣食住するための労働を

誰かが専門に行い、また、他の人もそれぞれ自分にあった労働で

生活を成り立たせるためのものを用意してきます。

自分自身もそれらにあやかる為に自分にできる労働をして、通貨を得て、

衣食住、生きていくことを構成するものを得ていく。こう循環していくというのが

経済の起源と思っています。

つまるところ、「まず自己ありき」を成り立たせるために、生きていくために、

この循環の中に入らないと、生きていけなくなっているのが経済社会だと思います。

それで、人の為に生きる必要があり、それはめぐりめぐって「自分が生きていくため」なのだと思います。これをして、「社会のために」と美しい響きの言葉で表現していると思います。ただ、人の本能のなかに人に喜ばれると自分も嬉しくなるという

回路があるのかもしれませんね。

id:shun6066

自分の為の「人のために」なんですよね。

人に喜ばれると自分も嬉しくなるという回路の正体が知りたいです。

2004/10/06 01:39:02
id:usakou No.10

回答回数373ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

人は他人の助けなしには生きられないからです。たとえ自給自足をしたとしても、ご飯を食べる茶碗、皿、箸、湯飲み等々やガス、電気、水道等必ず他人と接点を持って生きています。反対に、自分の行っていることの何かは他人のためにしているのでしょうし(例えば税金)、結局人は一人では生きられないのです。また、人は感情をもっています。それ故、愛憎や恩があり、愛や恩を感じる相手に対して何かを行うことは他人のためにといちいち意識していないか、その人が喜ぶことが自分の喜びであり、結果として自分のためになっているのです。以上のように私は考えますがいかがでしょうか?

id:shun6066

ありがとうございます。

2004/10/06 01:49:52
id:yasu-t No.11

回答回数174ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

http://plaza.rakuten.co.jp/satorin/2036

教育王♪さとりん日記 - 楽天ブログ(Blog)

『情けは人の為ならず』のことわざがすべてを語っていると思います。

id:DONOVAN No.12

回答回数18ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

 哲学的に言えば、「人はなぜ他人の為に生きなければならないのか」と問うことは、同時に「人とは何か」あるいは「他人とは何か」(逆に言えば自分とは何か)、それに「生きるとは何か」という問いを含んでいます。そして、これらの問いは、哲学の大問題であり、考え方もさまざまです。たとえば、「他者などそもそも存在しない」と言い切る独我論という立場さえあります(独我論は「論」としては成立し得ないと思いますが、それでもそう信じている人もいるようです)。とにかく、「自分とは何か」「他人とは何か」という問題だけで、これまで何千冊、何万冊かわかりませんが、たくさんの本が書かれ、いろいろな人がいろいろなことを言っています。

 また、さらにいえば、「人はなぜ他人の為に生きなければならないのか」という問いの中には、「『なぜ』とは何か」というような問いも含まれています。これは、「ことばで考えを表すこととは何か?どういうことか?」「ことばとは何か」というような問題です。これもまた、議論が錯綜しています。

 いずれにしても、これらの問いに決定的な答はないと思われます。

 哲学は、そもそも、「答」を出す作業と言うより「問い続けること」だからです。

 つまり、「人は他人のために生きなければならない」などという説教が安易に成立しないのが哲学です。「人は他人のために生きなければならない」などというのは哲学ではなく、「人生教訓」です。(倫理学であればそんな言い方もアリかもしれませんが)

 「哲学」と「人生教訓」は別物です。

 ですから、繰り返しになりますが、この問題を哲学的に問うのなら、まず、「自分とは何か」「他人とは何か」から整理してみる必要があるかと思われます。少なくともその点をある程度議論してからでないと、「人は他人のために生きなければならない」などという言説は成立しません。それ抜きに「人は他人のために生きなければならない」と信じることは、当たり障りなく生きていくためには必要かもしれませんが、哲学的とは言えません。

id:shun6066

哲学にも回答できてないということを聞いてなんか安心しました。哲学素人ですから自分に回答できないことを哲学に期待していました。

すごく気が楽になりました!回答にあるように僕も素人なりに答えを探していこうと思います。

2004/10/07 22:25:56
id:aiguo No.13

回答回数242ベストアンサー獲得回数3

ポイント12pt

「人は社会的動物である」などといいますが、他人の存在を受け入れることができない人間は、この世の中では円滑に生きていくのが難しいのです。極端な例でいえば、分裂病(最近は、統合失調っていってますが)など、他者との接触を失った人間は病気とみなされてしまい、病院などに隔離されます。彼らは危険人物、社会の敵とみなされます。隔離は、社会防衛のためです。利益を共有する大多数の人間にとって、そのような公共の利益を共有しない人間は危ないのです。逆に、利益を共有する人たちは、共有することそのものに喜びを見出すようになります。それが、あなたのいう幸せでしょう。

この前の長崎で殺人事件を起こした少年や少女も、他人に対する共感がないことが、一番問題になっていました。

社会は一人一人の上にのしかかっています。あなたの言うように「他人のために生きなければいけない」というのは私たちに課された義務なのです。(ただし、他人というのは、仲間内など、限定された範囲内での他人ですが。博愛には程遠い、利己的なものだと思います。)

id:sui-aoba No.14

回答回数20ベストアンサー獲得回数2

ポイント12pt

理屈でいえばヒトは社会で生きる動物なので、相互協力は生きるための前提だと思います。

同様にお金セックス衣食住全ても、生きるために必要な要素であると思います。

お金云々全てというのは欲求であると同時に自己実現の手段としても考えられるでしょう。

生きるための手段が自己実現の手段足りえるのならば、同様に他人のために尽くすことも自己実現の手段と考えられると思います。

ヒトは社会において自己を表現できることに幸福感を覚えても、不快に思うことはあまりないように思えます。

なので、他人に尽くすことで得られる実感というのは幸せである。

という考え方。はどうでしょうか。

ちなみに私は「情けは人の為ならず」ということわざを思い出しました。これが一番シンプルな考え方だと思います。

id:cumo No.15

回答回数37ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

 他人の喜びがなぜ自分の喜びにつながるか、ということを何度かコメントされてるようですが、、、

 えーと、人の進化の過程では、猿になる前のほ乳類は頭の両脇に眼がついていましたが、だんだん猿に進化してくると眼が前面に移って視力が良くなっていったそうです。で、視力が良くなったので表情による意思伝達をするようになったそうです。NHKスペシャルでやってました。たとえば口を大きくあけて他の猿とじゃれてるときは敵意が無いことを示してるそうです。人間でいうところの笑顔かもしれません。

 ここで私が思うに「喜ぶ他人(笑顔)=私に敵意が無い=私あんしんする=自分の喜び」ということなのではなかろうかと。表情による意思伝達の遺伝子が人間に引き継がれてるのではないでしょうか。

 猿時代に表情による意思伝達ができるようになり、人間時代には言葉による意思伝達ができるようになりました。電話や手紙のように相手の表情が見えなくとも、礼を言われれば気分はよいものです。人間は学習していくので、子供の頃に表情による意思伝達を覚え、成長にしたがって、言葉による意思伝達によっても他人が嬉しければ自分も嬉しいと感じる回路ができてるのかもしれませんね。あるいは学習によるものではなく、他人の喜びは自分の喜びという遺伝子がすでにあるのかもしれません。

 ぜんぜん哲学的な回答ではありませんでしたが。

 ちなみに、私は子供好きではありませんでしたが、自分の子供が生まれ笑ったり動いたりしたらやっぱり可愛いと感じました。子供は私に何の利益も与えませんし、もちろん私のために生きてるわけでもありません、誰のために生きてるわけでもありません、自分のために生きてるということすら考えてないでしょう。私も子供のために生きてるとは思ってませんが、だけどなぜか、子供に楽しい思いをさせて笑わせてやりたいという衝動に駆られます。

 損得とか他人のためとか自分のためといったことだけでは計れないものがあるのだなーと、一歳半の娘を見ながら最近はしみじみ感じてます。これは頭で考えてもわからないもののようです。地球に引力があるのと同じように、頭や体に備わっているものなのかも。

id:shun6066

僕はそこに理由がないとなにをするにしても不安になってしまいます。この質問したのもそういう理由です。ただ、回答を頂いて、子供を持つ年齢では全然ありませんが、自分の子供に対してはそんな理由なしに愛せるんじゃないかなと思いました。そこにいる自分が幸せだったらいいのかもしれません。

ただ今はその答えを探すことで自分の世界が変わればいいなと思っています。

温かい回答ありがとうございました!

2004/10/07 23:02:29
id:TakamiChie No.16

回答回数59ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

http://d.hatena.ne.jp/TakamiChie/

たかみちえの開発日誌

URLは関係なしです

 人はすべてにおいて、「自分のため」に行動していると思っていいんじゃないでしょうか?

ただ、その結果誰かが困っているのをみたり、非難されたりすると、うれしいとは思わないはずです。

逆に感謝されたり、いい噂が立ったりして、嫌な思いをすることはないと思います(後者は微妙ですが(^_^;))。

 まあ、「情けは人のためならず」とか、「等価交換」とかいいますが、その後何らかの見返りを期待してこそ、社会に貢献したりするんだと、思っています。

その場限りで生きてるわけじゃないからこそ、いわゆる「自分のため」だけには生きられない ってところでしょうか(^^;

id:DONOVAN No.17

回答回数18ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

 追記です。ポイントは要りません。

 カントという非常に有名な哲学者は、「人はなにをするべきか」という問いに対して、「定言命法」つまり、絶対に従わなくてはいけない命令があると唱えました。

 それは、「普遍的(どこでも誰にでも当てはまる)な法則」であり、人間の義務だというのです。

 そして、彼は「どんなときでも絶対に嘘をついてはいけない」といいます。「どんなときでも」です。一見、正しい考えに思えますが、どうでしょう?

 たとえば、親友のA君が悪い奴に追われて私の家に逃げ込んできたとします。しばらくすると、悪い奴が家を訪ねてきて、「Aはいないか?」と問うとします。そのとき、私はどうすべきか?

 カントによると、友人を見殺しにしても嘘をつかずに「A君は私の家にいる」と言わなければならないのです。

 奇妙に思えるかもしれませんが、これも、ひとりの大哲学者の考えなのです。

 カントにおいては、人の行為が「善」とされるのは、その行為の結果として他人のため社会のためになるかどうか、などと言うことでは決してなく、どんなときにも一貫した義務に従うということなのです。

 もちろん、「人は何をすべきか」という問いに対して、その「結果」、なるべく多くの人が幸せになるように考えるべきだ、という意見もあります。

 しかし、ある行為がA君にとっては幸せでも、Bさんにとっては不幸になる、というような事態は常にあります。

 そんなときには「人は他人の為に生きなければならない」などという考えでは、結局どうすればいいのかわからなくなります。「多数決で良い」というのではあまりに安易な考えではないでしょうか。

 それに対してカントは、「普遍的(どこでも誰にでも当てはまる)な法則」に従うことこそ善である。例外は認めない。というのです。

 でも、そうなると、これもまたすんなり納得いくものではないでしょう。

 堂々巡りです。

 つまり、何が言いたいのかというと、そもそも「人は社会や他人の為に生きなければならない」などというのも、哲学的には正解でも何でもない、ということです。

id:shun6066

う〜ん哲学てどこか観念的というか・・・

2004/10/07 23:11:23
id:komasafarina No.18

回答回数1662ベストアンサー獲得回数4

ポイント12pt

http://bobdylan.com/songs/serve.html

Bob Dylan: Gotta Serve Somebody

ま、ホントはみんな自分がいちばんなんですけどね、だけど自分自分てやってたら誰からも鼻つまみになってしまうでしょうねえ、だからイヤイヤ人のためってわけでもねえんでがすよ、なんちゅうかエブリシング「持ちつ持たれつ」っつうのがこの世の原理でありまして、それは微生物、昆虫、植物から大宇宙までで(たまに癌細胞とかHIVみたいなヤツもおるにはおるんですが)すべてはがっしり組み合わさってる。それが生物学的にも物理学的にも科学的にも社会的にも歴史的にも、、、その他いろいろ的にも、、、っつうことは、このわたしの暮らしは他人からなり、わたしもまた他人の力になっているという生き方や認識(それこそ哲学ですな)にもとづいて生きていくのがいちばん物事うまくいくやりかたなんですね(というこの原理にもとづいて人は処世の術をマスターしていくんでしょう、たぶん)タブーは侵すことなく。で、与えると減るのはポイントではありますが、その減ったポイントは何らかの満足をもたらしてくれる、いや、減った分、何かが違うかたちで増えたり発生したりするような自分の暮らしのマネージメント(=管理)を各人がやれれば、すべてが(原理的には)うまくいくはずなんですけどね。問題の解決もよろこびになる。他人の問題も決して他人のものではなく、それは自分のものでもある。自分の問題と思える範囲で、それは「わたしたち」の問題である。♪We Are The World、、、ぬあんちゃっとぉ。与えると与えた分だけ自分も豊かになれる。ものです、もし、豊かな気分になれなかったら、それはどこかで何かが間違っているんだろう、とわたしは考えている。あーー、精液たっぷり吸い取られちゃったよぉ損しちゃったよぉって思わないでしょ、男子なら。キモチ超A級でしょ。他人のためというのは、人並みにか、あるいは人並み以上に「力」(能力、力能、なんらかの力、人それぞれに)を持った人が生きていくための(つまり大人の)唯一の方途なんですね。早い話が他人のためは自分のためなんですね。世の中、大自然からしてそういうふうになっている。みんな誰かに仕えている。世の中、持ちつ持たれつ、お友達は朋に立つからお友達で、お共倒れじゃ、リンダ困ってしまいます。最高の権力者も自分の「力」をうまく使って自分の力のもとにある人々を何とかうまく食わせていこうと(それなりに)工夫と努力はしているわけですね。たとえ独裁者でも誰かに使えているわけでし。ああ、某金正日が工場長になる日だってくるんですよ。あのファッションで工場長ですよん。東アジアの工場として国際社会に参加するのが某北朝鮮の国家戦略だろうとあたしはバカな頭で思うんですよね。それがキムジョンイル&ノースコリアンズの向上になるんですね。ちなみに国際社会ってコトバにしても、これは英語で言うと「インターナショナル・コミュニティ」ってなるわけです。つまり「国際共同体」、国々からなる共同体、、、一国だけじゃやっていけないこの世界。他国のためが自国のため。経済だって、ひとり勝ちして自分だけが大金持ちになってもまわりが貧乏じゃ何やっても儲からなくなてつぃまうでしょってゆうお話。Synergy(シナジーと読む)というコトバがあります。「エナジー」(エネルギー)の「energy」に(シンセサイザーなんかの)「総合する」という意味の「syn」、辞書なんかだと「共同作用」とか「共働」なんてふうになってるのかな、その「synegy」も単に部分部分が力を合わせるのでなく、それぞれの部分部分が相手のための力になってこそ力(=エネルギーですね)の総合は全体として考えられないような大きな力になる。つまり、ただ単に力を合わせるだけじゃたんなる足し算にしかならなくて、それも必ずしもアタマ数の総量分になるとは限らない。だけども、それぞれがそれぞれのためにしっかりなっていれば、足し算と見えて掛け算、掛け算と見えて累々算、、、、はかり知れない効果を発生させることになる。他人のためは自分のため。。。。だってさ、そもそも自分っていうのはまず他人じゃないか、自分ほどおもろい他人はおらんだろう。。。って思わへん? I is someone else. (Iam って言ってるうちはまだダメよん、ってこれは人生っちゅうか魂活用の上級者向けですけど)ほな、こんなところでおいとましわすわ。じゃあにー、またにー、またにてぃー、♪ちかごろ「わたしたち」はイイ〜感じ♪

Puffyがまた見れて嬉スイにゃ〜。

id:marumi No.19

回答回数2608ベストアンサー獲得回数3

ポイント12pt

人間一人では生きられない。その他の人間もいて協力しあい生きていると考えると他人の喜ぶ事をすると自分も幸せな気分になる。この世に生かされているかぎり社会の為に何かお役に立つことをと考えるのは自然の摂理だと思います。

他人の為に動いていると自分が幸せになる。

なんか質問の回答がずれていたらごめんなさい・・

id:komasafarina No.20

回答回数1662ベストアンサー獲得回数4

ポイント12pt

(2回目です、補足です)

さきほど長々と書きましたが、濃縮してしまえば、こうです。つまり、「他人のため」(が自分のため)とは、早い話が「ネットワーク」ということです。

「ネットワーク」の原理ですね(動詞としてのネットワーク、言い換えれば「ネット状の有効作動」とでも言いますか)

では失礼!

id:pontena No.21

回答回数43ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

他人のために「してあげたい」というのは、そのことによって自分の存在価値・意義などを

自己満足だけでなく、他人にも社会にも認めてもらいたいという欲求なんだと思います。

それは“食べる”とか“寝る”とかの本能的な欲求に次ぐもの。

だから、その欲求が達せられると本能に近い形で、心底からの幸せを感じるのではないでしょうか。

それが内的動機付けとか、自分の生きがい(生きる喜び)とかになるのだと思います。

人が喜んだり感謝してくれたりする、好意の互恵性も「幸せ(に感じる)の理由」のひとつかもしれません。

http://pii-desu.hp.infoseek.co.jp/note3.htm#gaihatu

心理学ノート3 動機づけ

ただ、他人のために「生きなければならない」ということはないと思うのですが…

その欲求が満たされない(認められない・喜ばれない)ことが多いと

内的動機付けが無くなってしまって、荷の重い使命感だけを感じることはありますね。

「自分のためだけに」と言ってる人でも、人間らしいコミュニケーションを取りながら生きてれば

何らかの形で、それこそ存在自体が、誰かのためになってると思います。

id:shun6066

本能というのは分かります。だけど本能でしかかたずけられないのでしょうか・・・もっと深く、といっても何が深いのか分かりませんが・・・

2004/10/07 23:23:35
id:pasopaso No.22

回答回数75ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

今の生活は過去の努力の産物です。たとえば水道や橋や電気や社会福祉制度。これを維持すること、さらに便利な社会を作っていくことは人間らしい行動で、そこに喜びも感じるのがヒトという生物なのではないでしょうか。

id:apple_pie No.23

回答回数196ベストアンサー獲得回数5

ポイント12pt

情は人の為ならず

住みやすい社会を作れば

自分も気持ち良く生きて

ゆけるのではないですか?

id:surata No.24

回答回数3ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

仏教の一つ、密教には、大欲という思想があるそうです。結局、人間というものは、自己中心なものであり、それは、人間には様々な欲があるからなのでしょう。道徳的には、そうした欲は、自分の幸せにはならない、人のために尽くしなさい、と教えますね。密教の場合、そうではなくて、その自己中心の欲をもっともっと大きくしなさい、と教えるそうです。それが、大欲と言われるもののようですが、本当に、大きな欲を持つと、必然的に人のことも考えなければならず、その人の幸せを願う言動が伴ってくる、と言います。確かに情熱を持って、何かを為そうと行動していけば、最初は自分だけの世界で良かったものが、段々を人を巻き込んで行かなければならなくなるものだと思います。そうなると、自分の大欲の達成のために、多くの人も巻き込み、その人たちの幸せにもつながってゆくのかもしれません。道徳的には、人のために尽くす、という意識化が必要ですが、密教的には、自分の夢や情熱を強く願い、実行してゆけば必然的に人のためになる、という考え方で、私は、こっとの考え方が好きです。

id:kuippa No.25

回答回数1030ベストアンサー獲得回数13

ポイント12pt

社会と言うものは人間という種族がつくりあげたものです。

生物には種の保存の法則というものがありまして、自分と同じ種族を守ろうとします。

それと同時に自己保存の法則というものが存在して、自分を守ろうとします。

単純な例で考えると鰯(いわし)の群れを思い浮かべてみてください。鰯は自分を守るために種族を利用し、種族を守るために群れるのです。

というわけで、

まれに自己顕示欲の塊のような自己保存の法則全開な人もいますが、

そのひとの自分のためにしている行為がその種族の為になっている間は、

社会からも許されます。

しかし、その個を保存するために種族としての存続が危険にさらされるような、

エテモンキーが核のボタンをもっちゃった日には、

ちょっとどーーーなのーー!と危機感を募らせる人たちがでてきます。

id:littera No.26

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ポイント12pt

http://www.arsvi.com/b2000/0403sj.htm

齋藤純一編『福祉国家/社会的連帯の理由』

URLは立命館の立岩信也氏のHPです.ここは役に立ちます.

彼は「他者がいることの快」という考えを通じて,合理的なエゴイストの概念を批判してゆきます.

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/458800770X/qid%3D109702...

Amazon.co.jp: 承認をめぐる闘争―社会的コンフリクトの道徳的文法 (叢書・ウニベルシタス): 本: アクセル ホネット,Axel Honneth,山本 啓,直江 清隆

人間は他者からの承認を求めずにはいられない.そしてそれが「主人と奴隷の弁証法」を生み出すというのがヘーゲルの主張でした.著者ホネットはヘーゲルの現代的再生を通じて多文化主義の問題などに取り組んでいます.

id:unochan No.27

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ポイント12pt

http://moto-ken.cool.ne.jp/shoseki/novel/hosie0.html

新井素子著作:「星へ行く船」シリーズ

反論なような言い方で申し訳ないのですが、社会の為、他人の為に生きる事に理由や意義は無いと思うのですが。あえて理由を付けるなら好きだからでしょう。ある人はそうする事が自分がいい人だと思われるのが好きで、ある人はその行動や言動によって喜ぶ人たちを見るのが好きで。具体的な理由はさまざまでも自分が好きだと思う事だからではないでしょうか。人間は考える事のできる生き物です。よってさまざまな事柄に「なぜ?」を求めて今の繁栄があると思うしそれはとてもすばらしい事だと思います。と同時に感じる事のできる生き物でもあります。その感情を言葉や行動や態度によって表現する事ができそれを受け取る相手がまた感じて表現する。そのコミニケーションによって「社会」というものが出来上がっているのではないでしょうか。「社会の為、他人の為」に生きる事で自分が幸せに感じられるのは、その相手を思う言動や行動する事がそうしてもらった相手が喜びや幸せをを感じてそれを表現してもらいまた自分が喜びや幸せを感じるからではないでしょうか。「他人の為に生きるのが自分が生かされる事」とかどちらが優先というのではなく、「他人と自分」「社会と自分」そこに同じく存在してる以上どちらも同等でしょう。

なんかまとまりの無い話し方でスイマセン(^^;

上のURLで紹介している小説はそんな感情というものを題材に書いたものです。かなり少女チックなので参考にはならないかもしれませんがよろしければお試しください。

id:shun6066

ありがとうございます。

2004/10/07 23:37:47
id:ban_ayaka No.28

回答回数22ベストアンサー獲得回数0

ポイント12pt

http://d.hatena.ne.jp/ban_ayaka/

インターネット技術論課題

人の為に自分自らが動くっていう行為はとてもすばらしい行為だと思います。人間は一人では生きてはいけないのでみんなんで支えあっていかなくてはなりません。社会への貢献や他人への配慮はとても重要な行為です。

他人の為に行動できる人間=未来を作っていく有望な人と考えています

id:shun6066

ありがとうございます。

2004/10/07 23:38:17
id:sami624 No.29

回答回数5245ベストアンサー獲得回数43

ポイント12pt

http://www.nagaitosiya.com/lecture/0110.htm

永井俊哉ドットコム論文編

この辺が妥当な考え方ではないでしょうか。

あまり哲学的ではないですが、仏教の教えから言われているようです。

id:shun6066

ありがとうございます

2004/10/07 23:40:17
id:black3 No.30

回答回数9ベストアンサー獲得回数1

ポイント12pt

http://ja.wikipedia.org/wiki/

メインページ - Wikipedia

利己的遺伝子

 情けは巡り巡って自分の為になるから。

 嬉しいと感じるのは、進化の過程で次のような自然選択が起きたからと思われます。群れで生きる場合、利他的な個体が多い方が群れとして有利。しかしそこまで考えて行動する個体は少なく、またそうした因果関係が複雑な知恵・知識は遺伝や類人猿以下の群れの教育では伝わらない。しかし「利他的な行動をすると気持ち良い」という漠然としたプログラムなら遺伝や初期の教育で受け継がれる。そうしたプログラムに染まった個体は、気持ち良いのだから馬鹿でも無能でも利他的な行動をする。群れの中で利他的な行動が多ければ多い程、その群れ全体の競争力が上がるので、このプログラムを浸透する。こうして「利他的な行動をすると気持ち良い」が植えつけられたと推測します。蜂や蟻の利他的行動は完全に遺伝子に組み込まれていると思われます。

 しかし人間は賢しいので、そうした「気持ち良い」という気持ちにすら疑問を抱いてしまい不幸になっています。

id:shun6066

ありがとうございます

2004/10/08 00:07:58

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  • 人はなぜ他人の為に生きなければならないのでしょうか 人はなぜ他人の為に生きなければならないのでしょうか 2006-03-13 16:12:13
    http://www.hatena.ne.jp/1096988233<br><br>人は他人の為に生きなくてもいいです。じぶんのために生きればいいの。だけど、集団生活をするサルの子孫として、集団の存続を守りたいって本能はあるか
  • 利他行動と情と共感の関係 利他行動と情と共感の関係 2006-03-13 16:12:13
    muse-A-muse より。 はてな 「社会のために」などと言いますが、人はなぜ他人の為に生きなければならないのでしょうか。一方、そのことに対して幸せを感じることもあります。その幸せの理
  • 利他主義に関するえとせとら 利他主義に関するえとせとら 2006-03-13 16:12:13
    ・・だめだ<br><br>・・頭が働かない<br><br><br>(っていうか、すごくいろいろめんどい・・・。)<br><br><br>そういうわけでちょっと気分転換を..<br><br><br><br>philosophicalのshinさんからはてなの質
  • caguirofie caguirofie 2006-03-13 16:12:25
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