私は英語がわからないので洋書については翻訳ものを読むわけですが、
それでも読んでて「同じ作品で訳者が違う場合」「同系シリーズで訳語が
異なる場合」など訳の不自然さからとおもわれるひっかかりを感じることが
あります。
皆さんはそういうことありませんか?
もしありましたら教えてください。
1.可能なかぎりISBNを明記の上
2.どういった訳が異なるのかを具体的に
3.あなたにとってどちらが、どういう理由で好みか
をお答えください。
最低条件として以下のものをあげておきます。
◎比較ですから両方読んだことがあること
(タイトルが違うだけであっても内容を読んだことがある場合に限ります)
◎双方の違いを指摘できること。
◎小説(児童文学・絵本含む)に限ります。
サリンジャーの「The Catcher in the Rye」でしょう。
これは、村上春樹の新訳が出て後、Amazonの村上訳の書評のサイトで、えんえんと議論が続けれらていますが、私の印象は、まったく別の本になってしまったということ。細かいところまでいろいろ挙げるのは煩雑なので省略しますが、サリンジャーが良くも悪しくもユダヤ系の作家であることを強く意識させた野崎訳にくらべ、村上訳は「どこにでもいそうな普通の少年」になっています。それを良しとるか、作品の意図を曲げた改訳とするかで評価は違ってくように思います。
ちなみに私は「野崎派」です。
昔から瀬田訳に慣れていたので、山本訳を読んだときは心底びっくりしました。どちらが好きかといわれれば断然瀬田訳です。どこが違うのかについては参考URLをご覧下さい。なお、私自身は大好きな瀬田貞二ですが、彼が訳した『指輪物語』については賛否両論です。また、この作品は映画化されましたが、字幕がひどいということで批判が多かったと聞きます。それについての参考URLはこちらです。
なお、手元に本がなくて具体的な違いを細かく指摘できないのですが、アガサ・クリスティーのポアロシリーズはいろいろな訳者が訳しているため、巻によって、かなりポアロのキャラクターが違っている気がしました。たしか『ポアロのクリスマス』だったと思いますが(すみません、うろ覚えです)、自分のことを「俺は」というポアロがでてきて(人にむかってではなくて心の中で考えるという場面ですが)「こんなのポアロじゃない!」と思ったのを記憶しています。
回答ありがとうございます。
指輪!来ましたね〜。
私も瀬田訳で慣れ親しんだクチでして、山本訳はパラ見しただけです。
映画の誤訳は・・・・正直、酷かったです。
原作知らない方だったら物語を誤解すること間違いなしだとおもいました。
翻訳された方が原作(瀬田訳を含む)を読んだこともないというのが本当なら、原作が好きで映画化した監督にも失礼だなというのが正直な感想です。
ただ瀬田訳は繊細ですが古いと感じる方がいても仕方ないところはあるかなともおもいます。
そういう意味でまったく新しい訳というのも求められているのかもしれませんね。
クリスティ作品はホントにいろんな出版社から出てますよね〜。知人はタイトルが違ったためにうっかり重複して買ったりしてました。
たしかに「俺は」なんていうポワロは見たくないっ!(あ、ポアロとポワロというのも微妙な違いですね/笑)
http://bk1.hatena.ne.jp/1096729048#
翻訳小説について質問です。 私は英語がわからないので洋書については翻訳ものを読むわけですが、 それでも読んでて「同じ作品で訳者が違う場合」「同系シリーズで訳語が .. - 人力検索はてな
ドストエフスキーの訳の善し悪しについては、ネット上の掲示板でも論議されることがしばしばあるようです。「カラマーゾフ」に関しては、他にも江川卓訳があるらしいですが、それは読んだことはありません。挙げたものでは、原訳は文章のリズムがよく、やさしい言葉で書かれていて、会話(とくにアリョーシャや子供たち)も生き生きしています。
米川訳は、時代が古いということもありますが、文章がごつごつしています。たとえば6章の冒頭の一文は、原訳「不安と心の痛みを覚えながら長老の庵室に入ったとたん、アリョーシャはほとんど愕然として立ちどまった」、米川訳「アリョーシャは胸の不安と痛みを抱きつつ、長老の庵室へ入った時、驚きのためにほとんどそのまま入り口で立ち竦んだ」。適当に拾ったのでわかりにくいとは思いますが、後者の「ほとんどそのまま入り口で……」みたいな、古今絶えてやまない悪しき翻訳調が全編つづくと、きわめてかったるいです。
URLはダミーです。
回答ありがとうございます。
最初asinがなんなのかわからず、そしてなんなのかわかってからも利用の方法がわかりません(涙)
回答の中身が興味深いだけに、切ない・・・・。
今後回答される方でasinで紹介される方は使い方も教えてください・・・・。
訳が古くなるというのは時代の趨勢ですからどうしようもないですが、翻訳調は確かに読みづらいですね。
せっかく「ネット上の掲示板でも〜」とおっしゃるからにはダミーではなくそのひとつのURLでも付けていただけたらとても嬉しかったのですが。
ドストエフスキーはあいにくと1冊も読んだことがないです。気持ちが乗ったときにえいっとチャレンジしたいですね。やっぱりカラマーゾフあたりから?
── 引き出しには、私の大きな創作のはじめの部分がはいっている。
「わが生涯の作品」ということができよう。それはあまりおおげさに
聞こえるから、そうは言うまい。というのは、この作品の進行と完成は
おぼつかないことを告白しないわけにいかないからである。新しく始め、
続け、完成する時が、もう一度来るかもしれない。そうなったら、私の
青春のあこがれは正しかったわけで、私はやはり詩人だったのである。
それは私にとって村会議員や石の堤防と同じくらいの、あるいはそれ
以上の値うちがあるだろう。しかし、すらりとしたレージー・ギルタナ
ーから哀れなボピーにいたるまで、なつかしいすべての人々の姿を含め
て、私の生涯の、過ぎ去りしはしたが、消え失せることのないものを、
それはつぐなうに足りないだろう。
── 高橋 健二・訳《郷愁 19560831 新潮文庫》P185
1.ISBN 4102001077
2.過ぎ去りしはしたが、消え失せることのないもの(高橋・訳)
過去とはなったが、しかし不滅であるところのもの(芳賀・訳)
3.中学時代の芳賀訳よりも、中年を過ぎてから読んだ高橋訳のほうが
詩的に感じられました。わたしの自伝《虚々日々 20001224 》に、
対照して、引用した部分です。
── この大作はことによったら、もう一度書き直し、書きつづけ、完
成する様な時が恵まれるかも知れない。その時こそ私の青春の憧憬が充
される時なのであり、私は詩人になれた、と云うことになるであろう。
それは私にとっては村会議員や、石の堤防と同じくらい、或いはなお
それ以上の価値のあるものだったかも知れない。しかしながら、それは
あのほっそりした美しいレージ・ギルターナーから可哀想なポッピーに
至るまで、愛すべきあらゆる人々の像をひっくるめた、──あの私の生
涯の過去とはなったが、しかし不滅であるところのもの──に較べたら、
元より及ばぬものであったであろうが。
── 芳賀 檀・訳《郷愁 19521128 人文書院》現代世界文学全集Ⅰ?
<PRE>
Hesse,Hermann 作家 18770702 Deutch Suisse 19620809 85〜《Peter Camenzind 1904》
高橋 健二 独文学 19020918 東京 19980302 95/春子の夫/中央大学教授〜《ヘッセ全集》
芳賀 檀 独文学 19030706 東京 19910815 88/矢一の長男/京都大学教授〜《ドゥイノの悲歌》
</PRE>
回答ありがとうございます。
質問に沿っての対訳大量投下、どうもありがとうございました!
こうやってド〜ンと示されるとわかりやすいような気がしますね。まあ御大の訳となると多分に好みとしかいいようがないところではありますが。
ヘッセの訳で高名な高橋健二氏は、読んだ作品数の違いから私の中ではケストナーの訳者というイメージがあります。
ヘッセは「デミアン」と「車輪の下」とあと短編ぐらいしか読んだことがないのですが、いったい誰の訳だったのやら・・・。
C.S.ルイスのナルニア国物語の「ライオンと魔女」です。もちろん、岩波書店の瀬田貞二訳です。
わたしは、30年くらい前小学校の図書室で、「魔女とライオンと子どもたち」という本を読んだ覚えがあります。出版社、訳者とも不明です。探してみましたが見つかりませんでした。ごめんなさい。
既に瀬田訳の「ライオンと魔女」を読んでいたので、「へ〜」と思って読んでみたのですが、同じ話なのに、すごく読みにくくてつまらなく感じました。アスランの口調が軽々しく、子どもたちの話し言葉も違和感がありました。瀬田訳でできあがったイメージを崩されて嫌だったのかも知れません。
「石舞台」を「ストーンテーブル」と訳してあったのを、何故かはっきり覚えています。歴史ある魔法の場所であるはずの「石舞台」が急に薄っぺらくなった気がして、翻訳って大事なんだ!と知った瞬間でした。
回答ありがとうございます。
子どもの頃に違和感を感じたなら間違いないですね!そして図書館で読んだ本が探そうとすると見つからない、というのはよくわかります。
回答内容がわかりづらかっただろう質問にばっちり沿ったものでしたのでOKです!
指輪だけでなくナルニアでも瀬田訳以外があったのですか。
私が知ってるのは「ライオンと魔女と衣裳だんす」http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/407ac8dbcf...
ぐらいですが、これは瀬田訳を底本にした(?)田中明子さんの訳ですし、最近のものですから違うでしょうね。
「ストーンテーブル」という訳、英語が日常に入り込んでいる今の子ども達ならばそれほど違和感を感じないんでしょうけど、「石舞台」で自分の中にしっかりとイメージが出来上がっているならば確かに薄っぺらい印象は拭えないかもしれません。
ナルニアは学生になってから読んだのですが、瀬田氏が日本になじみのないお菓子の名前だという理由で男の子の好物を「プディング」に変えたという断りが書いてあったのに違和感を覚えました。知らないお菓子でもおいしそうな記述があれば、そこからそのお菓子に興味を持つようになるだろうになあと。
原書を読めない読者にとっては訳者さんは第二の作者といってもよいくらい大切な方ですから、そのさじ加減でまったく雰囲気の違う作品を読むことになるとおもうとドキドキします。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/external-search/249-5769054-...
Amazon.co.jp: レックス・スタウト - 和書: 本
ネロ・ウルフ最後の事件 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 35‐7))
早川書房と二見書房から出ている、ネロ・ウルフのミステリシリーズです。
これが何故か、同じシリーズでも翻訳者がバラバラで、今家にある9冊の本に対して、その数6人。
助手アーチーの一人称も「ぼく」であったり「私」であったり、さらに探偵ウルフの一人称まで「私」「わたし」「おれ」と違っていたり、翻訳者によって文章が固い感じになったり軽くなったりと、統一感が全然ありません。細かいところですが、それによってキャラクターが全然違ってきます。
好きなシリーズだけに、もうちょっとなんとかしてほしかったな〜と思います。
回答ありがとうございます。
そうですよね、シリーズものの訳ならば最低限度一人称と名前の表記くらいは統一して欲しいとおもいます。特に出版社が同じならなおこと!
できたら同一シリーズは同一訳者が一番読み手としてはありがたい・・・・。
でないと自分の中のキャラクター達が壊れていくような気がします。
同一シリーズの二作目と三作目です。
比喩表現すら直訳する菊池訳に対し、なめらかで自然な日本語の高見訳。
会話文において、菊池訳では直訳ゆえに性差をほとんど感じさせなかった言葉遣いが、高見訳ではきちんと性差によって書きわけられています。
登場人物の性格が根本から変化してしまったような印象を受けました。
それと、「羊たちの沈黙」では「日焼けした肌」と形容されていた登場人物が、「ハンニバル」で黒人と判明したのは衝撃でした。
単語の選び方が独特で文章にリズムがある菊池訳が好みです。
ひっかかりを感じたわけではないので回答としてはずれているのですが、「翻訳夜話」では村上・柴田両氏がカーヴァー・オースター二氏の短編作品の「競訳」をやっておられます。
「僕はこの話をオーギー・レンから聞いた。この話の中でのオーギーの役まわりはあまりぱっとしたものではないので、というか少なくとも本人はそう思っているので、書くときには本名は伏せてもらいたいと彼に頼まれた」(村上春樹訳)
「私はこの話をオーギー・レンから聞いた。オーギーはこの話のなかで、あまりいい役を演じていない。少なくとも、オーギー本人にとっては願ってもない役柄とは言いがたい。そんなわけでオーギーからは、俺の本名は出さないでくれよな、と頼まれている」(柴田元幸訳)(以上p147、p163から引用)
といった具合で、こちらも比較的硬い柴田訳の方が好みです。
翻訳作品ということが念頭にあるので、砕けた日本語には違和感があります。
回答ありがとうございます。
別メディアで展開している作品は、そちらにもファンがいるのでいろいろと難しいのでしょうね。売り時・売り方にあわせて訳者を選ぶということもあるのでしょうか。
私もよく翻訳での言葉づかいは気になります。日本語は方言を用いらないでも、大げさに言うなら一人称と語尾だけで年齢、性別、ときにはその人の社会的地位まで感じることができる言語だとおもうので、その選び方ひとつにも訳者の意図がものをいいますから。
それにしても「日焼けした肌」が「黒人」とは!たしかに衝撃でしたね。
>比喩表現すら直訳する菊池訳に対し、なめらかで自然な日本語の高見訳
と表現しつつ菊池訳が好みというのが奥が深いです(笑)
また併せて面白そうな本を紹介いただきありがとうございました。
『ドリトル先生』シリーズと言えば、井伏鱒二さんが翻訳されたものが有名ですが、一時期講談社文庫から他の方が訳されたものが出ていました。(今はもう絶版のようです)井伏訳になじんでいた私は、講談社文庫を一読して衝撃を受け、以後目の敵のようにしていた覚えがあります。もっとも顕著な違いは、井伏訳で「オシツオサレツ」と訳されていた双頭の動物が、講談社文庫版では「ソレヒケヤレオセ」となっていた点です。
回答ありがとうございます。
井伏訳はとても素晴らしいとおもうんですが、近年、作品が書かれた時代、訳された時代には問題にならなかった「差別語」という考え方の普及で扱いがデリケートな時期がありました。
ひょっとしたらその関係での出版だったのかもしれませんね。
私としては岩波書店が断り書きをしつつも井伏訳に手をいれないように配慮したことが嬉しかったのですが。
「オシツオサレツ」が「ソレヒケヤレオセ」!び、微妙です・・・。
もとの単語がなんなのかわかりませんが、こういう訳にひとひねり必要な固有名詞の場合は、最初に出会ったほうが刷り込まれてしまうような・・・。
ミッフィーのしかけえほん ミッフィーのいちにち (ブルーナのアイディアブック)
回答したあとに思い出しました。まとめて回答せずにすみません。ポイントはいりません。
ISBNをあげたブルーナのシリーズは講談社と福音館で名前が違います。私は「うさこちゃん」派です。原書では”Nijinte”(ナインチェ/ちいさなうさぎという意)だそうですし、なんでわざわざ英語名?という気がします。ただテレビのアニメも講談社の名前と同じだったようで、今の子ども達&若いお母様にとっては「ミッフィー」のほうがなじみ深いのだろうと思います。どう呼ぶかで年が分かるのかも。さびしいです(笑)。このシリーズでは「くんくん」という子犬がでてくる本があり、たぶん講談社版の「スナッフィー」と同一犬ではないかと思うのですが、「くんくん」は自分のことを「ぼく」というのに「スナッフィー」はあかちゃんを生むんです。原書ではどうなっているのか知りたくてなりません。
絵本では他に『歯いしゃのチュー先生』(スタイグ作/評論社)の続編『ねずみの歯いしゃさんアフリカへいく』(セーラー出版)では「ソト先生」に変わってしまっていて、翻訳者どうしでなんとか話し合えなかったのかなあと思います。これじゃあ別人(?)です。
余談ですが、今朝の日経新聞に平田俊子さんがカフカの『変身』について書いていました。主人公の名前が「グレゴール」だと思っていたら「グレーゴル」に変わっていた、という話です。(この夏公開された映画、白水社の「カフカ小説全集4」収録の池内紀訳版、現在の新潮文庫版では「グレーゴルなんだそうです)私も「グレゴール」だと思っていたので(ええ?!)と思いましたが、岩波文庫から新しく出た改訳版では「グレゴール」だったと最後に書いてありました。どっちでもいいってこと?
ながながとすみません。
再びの回答ありがとうございます。
こんなに熱い回答であれば何度でも歓迎です!(いや、回数制限があるのは承知ですが)
私もうさこちゃん派です。年、わかるのかなあ(笑)
なので最初ミッフィーとうさこちゃんのなにが違うのかわからなくて困惑しました。
シリーズものの場合一人称があとあと致命的なことになる場合がありますよね・・・。実際、原作ではどうなんでしょう?
スタイグ作品については読み手は絵と内容がすべてですからね〜。出版社・訳者が違うなんて気にしないで読める環境を整えて欲しいです。
まあ、実際は6番のように出版社が同じでも統一感がない作品も多々あるわけですから、難しいんでしょうけど。
澁澤版は「サド裁判」のお陰でかなり話がカットされており、佐藤版は完訳版というだけでもかなり違います。
澁澤版:より小説的、雅語の多用、雰囲気重視
佐藤版:正確な翻訳、性描写が直接的(現代隠語や医学用語がボンボン出てきて、個人的にはう〜ん…)
翻訳そのものは澁澤版の描写が好きなのですが、完訳という点と、恐らく正確なのだろうと思わせる点で佐藤版がダメとは言えない微妙なところ。というかわいせつでダメだったんじゃないのだろうか澁澤版。時代の流れを感じます。
なお、佐藤版は完訳といいながら大盗賊ブリザ・テスタのエピソードをまるまる削っており、こちらは同じく未知谷版「閨房の哲学」で読むことが出来ます。あと本の分厚さも違う(笑)
佐藤晴夫氏は精神医学に携わっている方で、澁澤龍彦氏とのスタンスの違いなども仄かに訳文や最後の解説などから伺い知れる物があります。
回答ありがとうございます。
訳者のスタンスは重要ですね。
私のようなものでも耳にしたことがる「サド裁判」。澁澤氏が訳したということを抜きにしてもそれだけ注目を集めた作品を後追いで訳するためにはやっぱりそれだけのものをしっかりと持っている方でないと難しいのでしょう。
時代の流れで制限が緩やかになるものもあれば、厳しくなるものもあるのもしかたないでしょうし。
それにしてもエピソードをまるまる削って完訳とは・・・。
そして未知谷版、すごい値段にびっくりです(笑)
to be or not to be に対する訳がやはり気になりますよね。
福田版は 「生か死か」 として一般的に浸透している感が
あり実際私もそれに疑問をもったこともなかったので
小田島版の 「このままでいいのか、いけないのか」 という訳は衝撃的でした。
小田島さんの新訳シェイクスピア全集は意欲的で読んでいてもとっつきにくさがなく、私は好きです。
回答ありがとうございます。
やっぱりその作品を読んだことがない人でも聞いたことがある有名なセリフの訳の扱いって、その訳者の翻訳への姿勢を一番感じさせるところがありますよね。
シェイクスピアは実はまともに読んだことがないんですが、とっつきにくさがないのであれば、チャレンジするときは小田島訳からはいってみようかとおもいます。
シャーロック・ホームズの冒険 (シャーロック・ホームズ全集)
私は英語を研究する者ですが、口語英語の文法特徴が翻訳作品にどのように現れているかを調べるべく、「シャーロックホームズの冒険」を題材に4人の訳者による同一作品の文体を比較してみたことがあります。(そのうち3冊のISBNを示しておきました)
私が注目したのは、本文に現れる”Watson”という名前が、翻訳文でどのように再現されているか、という非常に細かい部分なのですが、日本語とはこの名前の付加の度合いが異なることがこれまでにわかっており、翻訳によって英文の内容をそのまま忠実に「不自然な」日本語に訳してしまう場合と、英文の内容から少々ずれても「自然な」日本語に訳してある場合があることがわかりました。
これ以上専門的な議論は避けますが、日本語らしさを少々欠くが原文に忠実に訳してあるのが小林・東山訳であり、どちらかと言えば日本語の会話らしい訳になっているのが延原訳という印象を受けました。もちろん私が研究の材料に用いたのはごく一部分のみですから、必ずしもそうとは言えない部分もあるかもしれませんが…。
回答ありがとうございます。
研究者ということは私が直面しているような問題(翻訳家への依存)とはある程度無縁なわけですね。うらやましいです!
有名な作品は訳もいろいろありますし、ホームズともなれば子ども向けの抄訳も含めて星の数ほどありそうですね。
研究者による専門的なご意見は興味深く拝見しまいしたが、せっかくですから
2.どういった訳が異なるのかを具体的に
3.あなたにとってどちらが、どういう理由で好みか
についての私見をお答えいただけたら嬉しかったです。2番が難しければ3番だけでも。
あくまでも翻訳ものを読んだときの「なんかこれ・・・???」というような私的な違和感から発した質問なので(汗)
もしよかったら再回答してください。
質問を読みぱっと思い出したのが赤毛のアンでした。
松本訳は、「村岡訳では省略されているシェークスピアの引用などを省略せずに訳した」ものだそうです。
訳者は「英文学の引用が入ってこそおもしろさが倍加する」というお考えだったように聞いたことがありますが、残念なことに私には繁雑な訳文になっただけであるような印象を受けました。
松岡訳はシェークスピアなどの英文学に造詣が深ければ引用元の文学を思い浮かべて楽しむこともできるのでしょうけれども、私にとっては煩わしいだけの訳文でしたので、村岡訳の方が良かったです。さすがに古さは否めませんが、それはそれでよしとしています。
回答ありがとうございます。
村岡訳は根強い人気ですよね。「〜ですってよ」というような語尾の嵐は読んでいてクラクラしそうですが、時代がかった調子がなんとなくアンのあの勢いと舞台となっている古きよき時代にぴったりな気がします。
私も、英文学を読むときの引用文は興味深いですが知らない身としては疲れるというのが正直なところです。
でも好きな人には外せないポイントなんでしょうから、選択肢としての松本訳は貴重かもしれませんね。
もしも「特にこの部分の訳の違いが!」というポイントがありましたら教えていただけると嬉しいです。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4488105122/hatena-q-22
Amazon.co.jp: 二人で探偵を (創元推理文庫 105-12): アガサ・クリスティ, 一ノ瀬 直二: 本
クリスティーのポアロのことが他の方の回答にあって、それで思い出しました。おしどり探偵、トミーとタペンスが活躍するシリーズのことを。
ふたりが登場する作品を初めて読んだのは、参考URLに載せた創元推理文庫の「二人で探偵を」一ノ瀬直二 訳でした。※bk1の当該本にはISBNが表示されていなかったので、アマゾンからコピペしてきました。
トミーとタペンスが活躍するシリーズ第2番目の連作短編集なのですが、そこでは、タペンスが「タッペンス」となっているんですね。創元推理文庫ではシリーズ第1番目の「秘密組織」一ノ瀬直二 訳もそうですが、やはり名前がタッペンスになっています。まずこちらに親しんだので、その後、ハヤカワ・ミステリ文庫の「おしどり探偵」橋本福夫 訳でタペンスとあったのを見た時は、読みながらかなり違和感を覚えました。
そして今年、クリスティー文庫で坂口玲子さんの新訳も読みました。書影に出ているのが、そうです。
なかで最も愛着があるのは、やはり最初に読んだ一ノ瀬訳の「二人で探偵を」です。書名の邦題としても、「おしどり探偵」より素敵だと気に入っています。
最初の刷り込みって、あとあと尾を引くものなんだなあと思います。作品の訳としても、創元推理文庫の一ノ瀬訳が一番親しみやすく、楽しく読んでいけた印象があるし。
でも、創元推理文庫では作者の名前が、確か「アガサ・クリスチィ」となっていたんですよ。今はクリスティとなっているけど。「クリスチィはないだろう、クリスチィは」と、これはこれで違和感を抱いたのも忘れられません。
今でも、クリスティと表記するか、クリスティーと表記するか、結構迷いますね。
タペンスについては、「タペンス」と書いていますが、ほんとは「タッペンス」と呼びたい気持ち。ハヤカワ・ミステリ文庫を読みながら、頭の中で秘かに「タッペンス」と変換しながら読んでました(笑)。
回答ありがとうございます。
私は「おしどり探偵を」は既読だったのに「二人で探偵を」を借りてしまったことがあります。
タペンスとタッペンス、両方読みましたがタペンスに先に出会ったのでタッペンスに違和感を・・・(笑)やっぱり固有名詞は最初の刷り込みが大きいですね。
創元推理文庫だったかどうかは覚えていませんが「クリスチィ」ありましたね。かなり驚きでした。
名前を親しみのあるものに脳内変換しながら読むというそのお気持ち、よくわかります。私もときどきしますので(笑)
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Amazon.co.jp: 怪奇小説傑作集 1 (創元推理文庫 501-1): アルジャーノン・ブラックウッド, ブルワー・リットン, ヘンリー・ジェイムズ, M・R・ジェイムズ, W・W・ジェイコブズ, アーサー・マッケン, E・F・ベンスン, W・F・ハーヴィー, J・S・レ・ファニュ, 平井 呈一: 本
二度目の回答です。ポイントは先の回答と按分して、ということで構いません。
英国怪談(短編小説)で、W・F・ハーヴィー(ウィリアム・F・ハーヴェイ)の「August Heat」という作品があります。参考URLの平井呈一訳では「炎天」、書影の田口俊樹訳では「八月の熱波」となっている作品。
原文にあたってみた訳ではないのですが、おそらく平井呈一訳はかなり意訳されているのではないかと思います。原文に忠実に訳しているのは、田口俊樹訳のほうでしょう。
ところが、読んでいて面白いなあ、ぞくぞくさせられる怖さがあるなあと強く感じたのは、平井呈一訳のほうなんですね。怪談の雰囲気や怖さをだんだんと盛り上げていく点で、職人芸的な巧さを平井訳に感じます。
一方、田口訳はすっきりとこなれた訳なんですが、逆にそれがこの作品の場合、マイナスになっているみたい。読んでいて、「あれ? この話って、こんなもんだったっけ? もっとこう、惻々とした怖さがなかったっけ?」と、割と平凡なものになってしまっている気がしました。きっちりと訳されていると思うのですが、その道の達人の訳のほうがさすがに巧いなと思った次第です。意訳とか、例えばアルセーヌ・ルパンの南洋一郎訳のような翻案は、原文の忠実度を基準にすればあまりよろしくないものなのでしょうが、読んで面白いのはどっち?という観点からすると、正確な訳のほうがむしろ面白くないこともあるんだなあと。
訳者が誰なのかって、かなり気になりますよね。一度読んで、「なに、このひどい訳文は! まどろっこしくて、日本語になってないじゃん」とか思うと、もうその訳者の文章は二度と読みたくない気持ちになります。ミステリーなどは、肝心要のところが誤訳されてたりすると……って、質問から逸れてきてしまってゴメンナサイ。このコメントの文章もだらだらして、随分読みにくいし(汗)
2回目の回答ありがとうございます。
chibit様にもコメントさせていただきましたが、熱い回答であれば何度でも歓迎です!
タイトルから思い切り違うんですね。これだとうっかり知らずに読んでしまいそうです。しかも訳の雰囲気が違うと気づかず途中まで読んでしまいそうな・・・。
丁寧な翻訳と勢いのある意訳、どちらがよいかは人それぞれかもしれません。といいたいところですが南洋一郎氏を上げられるとう〜ん、と唸って意訳に軍配を上げたくなります(笑)
なにせ南氏訳のルパン全集は小学時代毎日1冊のペースで手に汗握って読みきった思い出深いシリーズですから!
大人になってから他の方の訳したルパンを文庫で少々読みましたが、あの頃に引き込まれたような魅力は感じられず寂しいおもいをしました(まあ年齢もあるんでしょうけど)
でも南訳にはルパン全集なのに「これはルパンっぽい」というだけの理由でルパンが出てこないお話が含まれていたのには、幼心にのけぞりましたが。
あ、それから長い回答は大歓迎です。
この質問も「この訳ってどうよ???」という皆様の体験談を伺うことがメインですし、第一私のコメントのほうがよっぽどだらだらと無駄に長ったらしいですから(笑)
IS
モールス・ルブランのルパンです。
表紙が見えないので定かではないのですが、ハードカバーのものと、小説のもの。
ハードカバーの分厚い奴は、青少年向けだと思うのですが、今読んでもわくわくするぐらい名作です。
で、ハードカバーだと重たいので、小説の奴を何冊か読んでみたのですが、出版社が違うのかなんなのか…、なんじゃこりゃ??な本になっていました。
回答ありがとうございます。
う〜ん、表紙を確認出来ないとのことでしたが、これって南訳ではありませんよね。
というのも実は青少年向けルパンものの訳として非常に有名なものがありまして。それがちょうど15番の回答でも話題になっている南洋一郎訳のルパンシリーズなんです。これは怪人20面相シリーズと同じポプラ社から出ていたものです。
下のURLは新装版の「奇岩城」のものですが、これでしょうか?
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/407ac8dbcf...
また旧装丁版だと「奇岩城」が第1巻にあり、「悪魔の赤い輪」というルパンがでてこないルブラン作品が全集に収められているはずなんですけど・・・。下は参考URLです。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/tg/listmania/list-browse...
また、紹介されている下の作品は「岩波少年文庫」のタイトルでわかるとおり青少年向けのものです。
ちょっとテキトーに選んだのかなとおもってしまいます。これではちょっと求めてるものから外れているような・・・・。
もしも「今読んでもわくわくするもの」が南洋一郎氏訳のものでしたら(そうでなくてももちろんかまいませんが)その熱いおもいを再回答で語っていただけませんでしょうか?
「マドレーヌといぬ」を初めとするシリーズの初期は瀬田貞二さんの訳です。
「マドレーヌのクリスマス」以降は江国香織さんの訳です。
両者を読み比べてみて初めて瀬田貞二さんの素晴らしさがわかりました。
古くから、日本の絵本や児童文学の世界で活躍をされた方です。
文体が古くて、今では絶対使われない日本語なのですが、
その日本語がとても耳にやさしく、知らず知らずのうちに忘れかけていた美しい日本語が心の中に染み入るのです。
すわいちだいじとはしりにはしって・・・・・
いいんちょうさま。おきをつけあそばせ。
など、など。
江国さんが劣っているのではありません。
むしろ江国さんの方がわかり易いし、(古めかしい言い回しはありません)瀬田さんの亡き後、その意思を次ごうとしているのが端々にうかがえます。
ただ、大好きなマドレーヌの本に違和感を感じてしまった戸惑いは今でも忘れられません。
回答ありがとうございます。
2番でもお名前の挙がった瀬田貞二氏。マドレーヌシリーズも瀬田さんの訳だったのですね。意識せずに読んでました。
瀬田訳はどれもこれも本当に美しい日本語ですね。紹介されたわずかな一文からも十分に感じられます。素敵な箇所をご紹介いただきありがとうございます。
繊細で選び抜かれた言葉からなるその訳に親しんだ者には、そのシリーズが他の方から訳されるとどうしても違和感を感じてしまうのかもしれませんね。
シャーロックホームズについて昨日回答した者です。説明不足で申し訳ありません。具体的な訳の違いについて少しだけ触れておきます。「ボヘミアの醜聞」という作品から。
原文:”Wedlock suits you,” he remarked. ”I think, Watson, that you have put on seven and a half pounds since I saw you.”
この文には、途中にWatsonという名前が含まれています。このような名前の部分の訳し方が訳者によって異なるのです。訳者ごとにあげてみます。
延原訳:「君には結婚が合っているんだ、と見える。このまえから見ると。7ポンド半は肥ったぜ。」
阿部訳:「結婚生活はきみにいいのだね」と彼は話しかけた。「ワトスン、このまえ合ったときから7ポンド半はふとっただろう。」
大久保訳:「結婚してよかったようだね、ワトスン。この前会ったときから、7ポンド半はふとったようだ」
小林ほか訳:君には結婚生活が合っているようだね、ワトスン。しばらくあわなかったら、体重が7ポンド半(約3.7キロ)は増えたようだ。」
ご覧のように、延原訳では「ワトスン」という名前は出てきません。
これはホームズとワトスン2人だけしかいない場面での2人の会話です。我々が普段日本語を話す時、2人だけしかいない場面では相手の名前を呼ぶことはほとんどありませんが、英語では2人だろうが3人以上だろうが、よく相手の名前を会話文中で使います。逆に言えば、我々が英語を話す時、このように時々相手の名前を入れなければ、相手に対して非常に失礼に聞こえる可能性があるのです。
ここで翻訳について考えますと、日本語では2人の会話の時に相手の名前を入れることがあまりないわけですから、上で示した4人の訳者のうち、延原訳が最適ということになるかもしれません。研究に利用した12作品のうち、Watsonという名前は69回出てきましたが、延原訳では36回、阿部訳では62回、大久保訳では66回、小林ほか訳では69回、カタカナで「ワトスン」と訳出されていました。延原訳でこれだけ「ワトスン」としている回数が少ないのは、何か理由がありそうだと思いませんか?
もっとも、シャーロックホームズに関してはご承知のとおり「それは○○だよ、ワトソン君」というような台詞が皆さんの記憶にあることでしょうから、わざとワトソンという名前を残してあるのかもしれません。
私個人としては、日本語が使われる場面まできちんと想定してあると思われる延原訳が好みです。一番読みやすいという印象です。
この研究に関してISBN4-385-36108-8「言語文化教育学の可能性を求めて」所収の私の論文で詳しく述べています。専門的な議論になっては失礼ですからこのあたりで止めますが、ご関心のある方は私のブログ(
)からご連絡いただければ幸いです。
こちらの勝手な要請に応じて再回答いただきありがとうございます。
なるほど、こうやって具体例を挙げていただけますと門外漢の身でも翻訳というものの一端に触れた気になります。
確かに延原訳だけがそれほど回数が違うと意図的なものであるといえそうですね。
しかも私、英語だと相手の名前を頻繁に呼ぶということも意識せずに翻訳ものを読んでました。ホームズは「ワトスン」ポワロは「モナミ(わが友)」等、言われてみるとふたりだけの会話でも名前(またはそれに準じるもの)で呼びかけてる情景が浮かびます。
なんだかひとつ賢くなった気分です。
詳細な説明含め、何度もありがとうございました。
『イザベルと天使』(ティエリー・マリエ作、金の星社)
人気画家ヘレンスレーベンの絵本ということで、最初に飛びついたのが英語版。
後に邦訳を買い気がついたことは、英語は主語が3人称なのに邦訳は1人称。
わたしはかなり、この1人称のイザベルらしい話し言葉に満足していたのですが、アマゾンのレビューで原書の方がすばらしいという意見を読み、英語ではなく仏語で読まなければと思っていたところでした。
でも3人称(彼女)で、この邦訳みたいなイザベルらしさを出すのはむずかしいんじゃないかと思います。
邦訳には、1人称の特権がよく表れていますね。
『3びきのくま』(ボール・ガルドン作、ほるぷ出版)……ISBN番号がありませんでした。
おなじみのお話を、ポール・ガルドンが描いたもの。
残念だったのは、金髪の女の子の名前が「キャンディー」になっていたこと。
たぶん、日本の漫画「キャンディー・キャンディー」のイメージで訳者がこうしたと思うのですが、それにしてもなぜキャンディー?
描かれているゴールディロックスは、日本人にしてみればそんなイメージかもしれないけれど。長く語り継がれているお話に漫画の主人公の名前を当てはめるとは、ちょっぴりショックでした。
『わたしのだいすきなどうぶつは……』(フローラ・マクダネル作、冨山房)……重版未定かもしれません。
それぞれ見開きいっぱいに農場の動物が登場。
文章はほんのひとこと、ふたこと、I love……を使って、その動物を紹介するに過ぎません。
これが日本語になると訳者の思いのままに詩の世界が展開され、かなり豊かに自由にいろいろ表現されます。
翻訳の可能性を示されたようで、感心してしまった作品でした。
『いぬのマーサがでんわをしたら』(スーザン・メドー作、フレーベル館)
日本語の方が笑える!と息子と爆笑した作品。
英語って、ときに「ただそのままの描写」をするのには役立つ言語かもしれません。
それが日本語になると、「間」とイラストの効果が相まって爆笑の世界を作り出します。(うちだけかな?)
往々にして、絵本って自由に超訳しやすい媒体だと思います。
それゆえ、訳者の感性がそのまま反映されやすいともいえますね。
マドレーヌ・シリーズに関しては、わたしも瀬田訳のファンです。
わたしの体験は、古風な日本語だけれど、なぜか瀬田訳の方が「すんなり、分かりやすい」という印象で心に入ってきました。
江国訳は瀬田訳を意識した分、不自然さが出てしまったのでは?
逆に、彼女は彼女で自分の世界を展開するほうが自然な訳になったはずと思います。
回答ありがとうございます。
いろんな例がありましたが、今回の質問に沿ったものといえるのは・・・・強いてあげればマドレーヌシリーズでしょうか?(これも他の方にのっかった印象が強いです)
ほかは原文もしくは明記されていない他の訳との比較ですよね?
質問は翻訳を媒体本を情報源として受ける違和感を元にした「?」をききたいなあというのがもとだったりします。もちろんasukab様からあげていただいたたくさんの類書はとても興味深く感じたのですが、今回の質問の意図とはちょっとはずれてしまったように感じます。比較対照が原文、ですよね。原書にあたれない身には寂しいのです〜(涙)
もしよかったらマドレーヌシリーズでも他の訳でもけっこうですから、その訳者や訳に対する特別な思い入れを語っていただけると嬉しいです。
少し前にルパンシリーズが挙がってましたね。
私も子供の頃、南洋一郎訳の物語にやられたクチです。
昔の“どきどきわくわく”感をもう一度味わおうと、当時の怪盗ルパンシリーズ(ポプラ社)第1巻だった「奇巌城」だけは、何冊か読み比べたことがあります。
大人になって最初に読んだのが、堀口大学訳のもの。
これが全く違うんですよね、面白くない(笑)。ルパンがただの親父になってるんですもの(^^;)。
もともと堀口大学の訳とうのは、古いし、私の性に合わないんです。嫌いだといいながら、堀口大学訳の洋モノが多かったので比較的数は読んでたりしますが。同じ作品でも、堀口大学訳で一度読んで面白くなかったから、もう一度違う訳者の同じ作品を読み返したということも何度かありますし。
それで、「奇巌城」に関しては、他の訳者のものも何冊か読んでみたのですが、南洋一郎の訳ほどの感動を味わえたことがない。
と諦めていたのですが、先日、逢坂剛訳の「奇巌城」を読んでびっくり! 子供向けに書かれたものではあるのですが、これがいちばん私の求めていたモノに近い気がします。
具体的な訳の違いは、逢坂剛訳のものの解説に細かく説明されていますが、要は“超訳”というところでしょうか。どうやら、ルブラン自身の文章もあまり上手くなかったようですし、こうなると、訳者の腕一つに作品の善し悪しがかかりますよね。堀口大学は、正確に訳していたこと+言い回しが古く、余計に私にとっては面白味の欠けるものとなってしまったようです。
思い入れの強い作品だけに、いい訳のものが出て、ホント良かったと思っています。
順位をつけるとすると、1位南洋一郎訳、2位逢坂剛訳、3位がその他の人の訳で、最下位が堀口大学、でしょうか(笑)。
挙げた作品について、少し解説を。
南洋一郎訳は、ポプラ社の怪盗ルパンシリーズの第4巻。私が覚えているのは、たしか全33巻のシリーズです。30巻を過ぎた辺りでルブランが亡くなり、彼のアイデアを元に友人がシリーズを書き続けた、というようなことが説明されていたような記憶があります。なので、librariaさんがおっしゃるルパンが登場しない物語も、確か30巻以降ではなかったかと思います。当時のシリーズは第1巻が「奇巌城」でしたが、現在は「怪盗紳士」が第1巻です。
逢坂剛訳は、講談社の「痛快世界の冒険文学シリーズ」の文庫版。ハードカバー版には挿し絵もあるそうです。対象年齢が低いわりには、大人でも充分楽しめる書き方だと思いますよ。というか、南洋一郎訳にやられた世代の人が、大人になってからももう一度楽しめる内容です。
堀口大学訳は、新潮文庫のルパン傑作集3。改訂となっていますが、私が読んだのは改訂される前だと思われます。ルパンが自分のことを「わし」とか言ってるんですよね。それだけで、幻滅(笑)。
長くなりましたが、私にとって、それだけ思い入れの深い作品なのでした。
回答ありがとうございます。
南洋一郎氏、いたるところで悩殺(?)している模様です(笑)
たぶんいろんな書評を読むかぎり、南訳自体が超訳なのでしょうね。でも彼の訳があってこそ、ルパンが日本でこれほどの人気を博しているのでしょう。
堀口訳は残念ながら読んだことはありません。でも逢purple28様の意見を拝読すると南訳ファンは読まなくて正解なのかもしれませんね。「わし」なんていうルパンとは出会いたくありませんから・・・。
逢坂剛訳は図書館にあったのを見た覚えがあります。南訳にやられた(笑)purple28様が唸ったほどならばさぞ満足のいく一品なんでしょうね。解説の一端なりと詳らかにしていただけたらなら嬉しかったのですが。
同じ訳に深い思い入れのある方の意見を伺えてとても楽しかったです。
闇の公子
ISBN: 4150200459 (bk1ではヒットせず。参考URLへ)
死の王
ISBN:4-15-020086-6
タニス・リーの「平たい地球シリーズ」です。ほとんど絶版ですが。
擬古文の美しさも、この翻訳の魅力だと私は思っているのですが、浅羽莢子氏以外の方の文章は、擬古文を保てない時がたびたび出てきます。
そのたびに読むのが止まってしまい、結局ラストまで辿りつけませんでした。
また、浅羽氏自身の翻訳も第一作の「闇の公子」は絶品だったのですが、あとの巻でほんの少し揺れを感じることもありました。擬古文を保つのはやはり難しいのだろうと、その時思いました。
回答ありがとうございます。
う〜ん、著者名やタイトルは知っているのですが実は読んだことがないのです・・・。そのためせっかくの紹介も具体例がなく今回の質問に外れているといわざるを得ません。
もしよかったら美しい擬古語の一端なりと、具体例を挙げて紹介いただけませんでしょうか?
もうしばらく質問を続けるつもりですので、よろしくお願いいたします。
№4 の回答者の方もあげておられた高橋健二さまの訳ですが、
「ぼくたちはしゃべりすぎる」と、いつにない真剣さで彼は言った。「利口なおしゃべりなんかまったく無価値だ。まったく無価値だ。自分自身から離れるだけだ。自分自身から離れるのは罪だ。人はカメのように自己自身の中に完全にもぐりこまなければならない」
(高橋健二さま訳)
「わかったようなことをしゃべったって、意味ないよ。ぜんぜん。自分から離れるだけのことだ。自分から離れるのは罪だ。僕たちは亀の子みたいに、自分自身のなかに完全にもぐりこむことができなければいけないのだ」
(秋山英夫さま訳)
高橋さんの訳の本を紛失したのでネット上にあるこの部分だけで比較してみるしかないのですが、この部分だけでもかなり個性が出ていて違うと思います。
高橋さんはなんと言ってももちろんヘッセ研究のの第一人者なので正しいのですが、なんていうか、ちょっと無粋な感じがします。それはデミアンに限らず、全部に感じます。高橋さんの訳しか手に入らないものもあって正直私はそれならまだ手塚富雄さんがいいかと思ったりしました。
秋山さんの訳はカッコいいです。ヘッセの感性により近いのではないかと、素人考えではありますが思いました。秋山さんの訳でなければ私はダメo(><*)o o(*><)oダメ だったと思います。
(失礼を省みずあまりにも個人的感想を申し上げてすみません)
[6658 デーミアン ヘッセ、秋山英夫訳 重版カバ 昭51
1050 講談社文庫 ]
回答ありがとうございます。
あげていただいた訳の箇所は確かに受ける印象がかなり違いますね。両者の違いがとてもわかりやすいです。
>秋山さんの訳でなければ〜
まさしくそういう個人的なこだわりや感想を聞きたくての質問でしたのでありがたいです。
デミアン、内容がすでにうろ覚えなので再読の機会がありましたら秋山訳でチャレンジしたいとおもいます。
一度「奇巌城」で回答した者です。
逢坂剛訳の「奇巌城」(講談社文庫)の解説から、それぞれの訳者による翻訳の違いについて比較している部分があるので、そこから抜粋してみますね(少し長いですが)。
■「奇巌城」堀口大学訳(新潮文庫)
レイモンドが聞き耳を立てていた。またしても、しかも二度まで、その物音が聞こえてきた。夜の深い沈黙を形作っているさまざまな聞き取りにくい物音から区別のできるほどの、かなりはっきりはしているが、それが近いのか遠いのか、この広い城館の壁の内側から聞こえてくるのか、それとも広庭の影の多い奥の方から聞こえてくるかは言いかねるほどかすかだ。
そっと彼女は起き上がった。……
■「奇巌城」石川湧訳(創元推理文庫)
レーモンドは耳をすました。またもや、しかも二度、物音がきこえた。夜の静けさのなかにあるどんな雑音とも違う音であることがわかるほど、はっきりと、しかし、それが近いのか遠いのか、広い館の内側でか、それとも外側の、庭のくらい隅でかは、わからない程度にかすかであった。
彼女はそっと起き上がった。……
■「名作選・怪盗ルパン2 奇巌城」保篠龍緒訳(講談社)
カタリ、コトリ……
どこからともなく聞こえてくる、あやしいもの音に、ふと目をさましたレイモンドは、そっと、ベッドから起き上がると、寝室の窓の戸を、音のしないようにあけた。ま夜中の青白い月の光が、ひろい庭の芝生の上にながれていた。
と、その光の中を、ひとりの男が、大きな包みをかかえて、タタタタ……と走りさっていく。おどろいて見おくるまもなく、つづいてまたひとり。早い、じつに早い。ふたりのあやしい男のすがたは、たちまち土べいのなかにきえてしまった。
■「奇巌城」逢坂剛訳(講談社文庫)
スザンヌは、はっと目を覚ました。
物音が聞こえる。二度、三度。ただの物音ではない。何かを動かし、運んでいくような重い物音だった。しかも、屋敷の中だ。
スザンヌはベッドの上に起きあがり、じっと耳をすました。胸がどきどきしてくる。
いったい、だれだろう。父のジェーブル伯爵が、家具でも動かしているのだろうか。でも、こんな夜中に模様替えでもあるまい。
だとしたら、泥棒か。
そう考えたとたんに、スザンヌはぞっと体をすくませた。……
こうやって比べてみると、いかに堀口大学訳がまどろっこしいか(笑)。しかも、逢坂剛の訳では、レイモンドがスザンヌに変わってますしね。これぞ超訳(笑)。でも、これにもちゃんとした理由があって、どうやら、ルブランの原作自体が分かりにくいのだそうです。それで、整理する意味も含めて逢坂剛が“書き直した”とのこと。南洋一郎訳のものが手元にないのが残念なのですが、子供のころに読んで混乱しなかったということは、きっと南洋一郎もそのようなことをしていた可能性はありますね。
ま、どんな訳でも楽しめればいいんです。きっと好みもあるでしょうし、自分にぴったりのものに出会えるといいですよね。
再回答ありがとうございます。
しかもこちらの勝手な要望にお答えいただきまして恐縮です。
逢坂訳はレイモンドがスザンヌなのですか!読んだことがある者にとってはかなりの衝撃です(笑)
こうやって一度に同じ部分を読み比べると違いは歴然。訳者はやっぱり第二の作者なんだなとおもいます。purple28様がおっしゃるとおり、どんな訳でも楽しめればいいのだし、そんな中でも自分にぴったりのものに出会えたら幸せでしょう。
好きな作家さんがいるように、好きな訳者さんがいるというのももうひとつの楽しみ方ですしね。
わかりにくい質問に的確な回答をありがとうございます!
参考URLも面白く読ませていただきました。
私は野崎氏の方をうんうん唸りながら読んだ覚えがありますが
中学時代だったんで、出会うのが早すぎたのかもしれません。
内容をすっかり忘れた今、新たな気持ちで気持ちで比較しがてら
読み直してみようかとおもいます。